こころゆくまで

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教員として(部活動を考える)

1.はじめに


 35年前の昭和56年の新規採用の時に初めて、私は卓球部の顧問になりました。以来35年間、ずっと卓球部の顧問をやらせていただいてきました。しかし私は教員になる前は卓球などやったこともない、まったくの素人でした。いや、今でも自分の選手と試合をすれば、必ず負ける自信があります。そんな私がどうして14回も全国大会のベンチにすわったりできたのでしょうか。そして全国大会3位の表彰台にまで上がることができたのでしょうか。


 さらに私は、選手達に「全国大会に行くんだ」などとは一度も言ったことがありません。それもそのはず、本人はできることならば、「全国大会なんか行きたくない」と思っているのですから。「どうして行きたくない人間が、何回も行けるんだ。それはおかしいではないか。」と思われるでしょう。でも事実なのだから仕方ないのです。遠くに行って、知らないところで寝泊まりするのが苦手なのです。しかも何泊もしなければなりません。特に布団ではなくベッドとなると最悪です。まず、夜中の2時くらいに目が覚めます。そして今度はそのまま眠れない。それが何泊も続くのですから、本当に睡眠不足地獄に陥るのです。全国大会というものは私にとって、「体に悪い大会」「健康を害する大会」という思い出がトラウマになっております。


 それでも、全国大会に行きたいと子供達が言えば、何とかしてやらねばなりません。そんなこんなで、運よく、いくつかのチームでは子供達の目標達成のお手伝いをさせていただくことができたという、ただそれだけのことなのです。今でも、私自身は「行かなくてすむものなら、できれば行きたくないなあ」という気持ちに変わりはありません。
 私の場合、極端な話をするなら、部活動の取り組みは別に卓球でなくても何でも良かったと思っています。何の部活動であっても構わなかったのです。たまたま新採の時にお願いされたのが卓球部だったというだけの話で、何の部活であっても、子供達に子供達自身が自ら輝ける場を提供できたらそれでいい。それが教師の仕事なのですから。


 ここで忘れてはならないことがあります。それは、たとえ何十回と全国大会に行っていようが、全国大会で何位になっていようが、そんなことは何の自慢にもならないということです。 そんなことを自慢する人は何か間違っているように思えてなりません。なぜなら、子供達の夢を叶えてあげたいという気持ちで動くのが教員としての指導者のあるべき姿であって、自分の夢を叶えるために動くという方も指導者の中にはいらっしゃるかもしれませんが、その方は教員としての指導者とは言えないと思うからです。


 全国大会に何回行った。全国で何位になった。それを自慢する人というのは、その自慢という行為そのものが、「自分がやったのだ」と言いたいのであって、そこには「生徒の夢の実現をお手伝いをさせてもらった」という「他人の夢の実現」を目指す姿ではなく「自分の夢の実現」を目指してきたという姿が、ありありと映し出されているように思えます。


 さらに、「子供達の夢を叶えてあげたい」という思いが強すぎるあまり、必ずその裏で犠牲になっている人がいるということに気づかなければなりません。「私は子供の夢を叶えてやるという崇高な理想のために働いている。」と聞くと、私は「だからどうしたの。」と言いたくなるのです。「そんなの崇高でも何でもないやん。教師やったら当たり前やん。そんなことより、そのたてまえを理由に、君は他の人を犠牲にしてはいませんか?」


 実はこれが私の心情なのです。つまり、「自分の幸せを、他人の不幸の上に築いてはならない」これなのです。私の35年の指導歴において、私は私の家族、中でも私の妻に対して、謝罪したい気持ちでいっぱいなのです。というより、私はこの35年間ほぼ毎日、心の中で妻や子に謝罪し続けた日々だったのです。「今日も相手してやれなくてごめんね」「今日もどこにも連れて行ってやれずにごめんね」「今日も何も父親らしいことをしてやれずにごめんね」と。だからこそ、いつも私のわがままのために堪え忍んでくれている妻の誕生日には花を買って帰ることは忘れたことがありません。えっ、そんなことは当たり前のことでしたか?


 子供達の夢を叶えてやることができて、私がいくら幸せを感じたところで、その幸せと引き替えに不幸を感じる人がいるとしたら、その生き方は間違っていると思うのです。そのあなたの幸福のためにつまり、どんな大義名分を並べようとも、自分の一番身近な存在である妻子でさえ幸せにしてやれない人間が、自ら幸せになることなど考えられないからです。ですから、私の今日のお話は、35年間ずっと堪え忍んできた私の妻に捧げようと思っている次第なのです。まずは目の前の人を幸せにすることに全力投球。これが私の生き方なのです。そうであるなら、いつも目の前にいる妻と子供に感謝して、幸せにすることがまず第一になすべきことだと思うのです。みなさん、どうか奥様、旦那様を大切に、ご家族を大切になさって下さい。これは私からの心からのお願いであります。


 こんな私ですから、選手をあっちこっち移動させるという考えには到底ついていけないのです。だって、卓球って、いや卓球だけではありません。およそどんなスポーツも、対人競技と呼ばれるものはすべて、自分一人で強くなるなどということはありえないからです。一人で山ごもりして卓球の修行をします。出したサーブはいったい誰がレシーブしてくれるのでしょう?これでは絶対に三球目攻撃の練習なんてできません。相手のツッツキをドライブしたくても誰がツッツキしてくれるのでしょう?「ドライブをブロックする練習したいんだけど、誰かドライブしてくれないかなあ」って思っても誰もいないのですから。


 このことを考えたら、すぐに気がつきます。「今の私の実力は私と打ってくれた仲間がいたから」なのだと。「その人達がいなかったら今の私はいないんだ」と。だから「私が一番感謝しなければならないのは私の仲間なのだ」と。そして今度は「私がその人達のレベルアップのために尽くしていくことが私にできる唯一の恩返しなのだ」と。今の大人の人達ってこの「仲間に感謝する心、仲間に恩返しする心ということを子供に教えていないんじゃないかなあ」と思うことがよくあるのです。


 「君は仲間を置いてどこ行くの?」「恩返しせずにどこ行くの?」「それは君を強くしてくれた仲間を悲しまることにならないの?」一昔前の親御さん達だったら当然口をついて出ていたはずの言葉が聞かれなくなって寂しい思いをしているのは私一人でしょうか?だから仕方ないことですけど、教員である私達が言わないといけないと思っているのです。なぜなら、教育の根幹は「人作り」なのですから。「人の道を踏み外すなよー」って教えるのは私達の仕事なのです。


 自分の子供が幸せになったらそれでいいのでしょうか?先ほども申しましたが、私の哲学です。「自己の幸福を他者の不幸の上に築くべからず。」我が子に幸せになってもらいたいと思う一心で、実は他の人が悲しんでいるということを忘れてはいませんか?他の人を悲しませる道を選ばせてはいけない。少なくとも教師とよばれるご職業の方には胸に刻んでおいてもらいたいのです。



2.「意義」と「目的」ということ


 「意義」って何でしょうか。私達はけっこう普段使ってる言葉でも、あまり意味を考えないで使っていることが多いものですが。辞書で調べますと「物事が他との関連において固有にもつ価値や重要性。」(三省堂「大辞林」)とあります。なんか難しい話ですけど、要するに「価値」ということにしときましょう。


 では「目的」って何でしょうか。それも、辞書で調べますと「実現しようとしてめざす事柄。行動のねらい。めあて。」(小学館「デジタル大辞泉」)とあります。つまり、「部活動の意義」というのは、「部活動の価値」ということで、平たく言えば、「部活動をやることの価値はどこにあるの?」ということなのですね。「部活動の目的」と言うと、「部活動のめあて・部活動のねらい」これも平たく言えば、「いったい何のために部活動をやっているの?」ということになります。私達の立場から言うと「何のために部活動の指導をしているの?」ということです。


 部活動をお持ちの先生方は、こんな「意義」とか「目的」とかいうややこしいこと考えたことおありでしょうか?「そんな面倒くさいこと考えていったい何になるの?」「考えても考えなくても、部活持ってるんだから、それでいいやん。」とか思われるかもしれません。でも、案外、それを考えるということによって、自分が頑張るための動機づけになったりするものなのです。ですからちょっと、面倒くさがらずに考えてみましょう。



3.部活動の教育的意義ということ


私は部活動の教育的な意義(=価値)というのは次の三つではないかと思っています。
 ①生徒に、自分が輝ける場所を提供する。
 ②幸せな生き方(正しい人生観)を学ばせる。
 ③人間力(生きる力)を身につけさせる。


①部活動とは子供達が自らを輝かせる一つの場所を提供するもの。


 これは「自己実現」ということです。子供達は、いや子供達だけでなく私達も実はそうなのですが、人というのは毎日、自己実現を目指さないではいられない生き物のようです。自己実現というのは、簡単に言うと、自分の持てる力を発揮することによって自分の存在意義を明らかにするということです。自分は何のために生きているのか、人というのは本能的に自分の価値を知りたいのです。


 たとえば、今日も我が子の笑顔を見たいと思って仕事に精を出す私達。まだ、朝も明けやらぬうちに、我が子の幸せそうな寝顔をのぞき込み、「よし、今日も頑張るぞ」と決意して家を飛び出してゆく父親。毎晩遅くまで働いて、家に帰ってきては、また子供の寝顔を見つめて、「よし、今日も頑張れたぞ」と思うひとときの充実感。この父親は、我が子の笑顔を守りたい一心で毎日懸命に働き、帰宅して我が子の安らぐ姿を見た瞬間に自己実現の時を迎えています。「うれしい」と思う一瞬、それが自己実現をした姿です。


 さらに、ある日、職場のオフィスで精を出して働いていた時、部長から声がかかります。「おーい田中君、ちょっときて。」あわてて席を立ち部長のもとへ。「君、このプレゼンテーション、よくできてるね。素晴らしいよ。これなら社長にも納得してもらえる。君に任せて良かったよ。これからも頼むな。おーい、他のみんなも田中君を見習って頑張るようにー。」この時の田中君の笑顔。「うれしい。徹夜して頑張って作った甲斐があった。」という幸せな気持ち。その瞬間に、やはり田中君の自己実現している姿があるのです。


 つまり、大人も子供も同じなのです。自分の力を発揮できた瞬間、人は幸せを感じることができ、満たされた気持ちになる。この時の姿が「自己実現した姿」であり、平たく言えば「輝く」という表現になります。生徒の立場に限って言えば、授業中に輝く子もいれば、休み時間に輝く子、クラスマッチや体育祭で輝く子、文化祭で輝く子、生徒会活動で、そして部活動で輝く子。はたまた掃除時間に輝く子もいるのです。このように子供達に何かしら輝く場所を提供することが学校の使命なのです。これこそが学校の存在意義と言えます。



②幸せな生き方(正しい人生観)を学ばせる。


 もう、今から30年近く前の話になります。当時私は学級担任をしていましたが、私のクラスにすごく勉強のできる子供がいました。毎回のテストはほとんど満点の成績優秀な男の子でした。聞くと、平日で毎日5時間の勉強をしているとのこと。ある日、私は彼に尋ねました。
「そんなに毎日勉強してどうするの」「いい高校に入ります」
「いい高校に入ってどうするの」「いい大学に入ります」
「いい大学に入ってどうするの」「いい会社に入ります」
「いい会社に入ってどうするの」「いい給料もらって、いい生活をします」
「うーん、君はいい生活をするために、そんなに勉強しているのか。別に悪いこととは思わないけれど、ちょっとさびしいなぁ」


 彼はキョトンとしていました。私はこの子が悪いとは思いません。ただ、「大人の作り出した幸福観の犠牲者がここにもいるなあ」と可哀想に思うのです。私達大人はいつのまにか「いい生活をすること」=「幸福」と錯覚してしまってはいないでしょうか。そして、それがあたかも真実かのごとく子供達を洗脳してしまっているような気がするのです。


 幸福というのは「いい生活をすること」ではなく「いい人生を送ること」ではないでしょうか。「いい生活」と「いい人生」はイコールではないはずです。そして、私達大人が子供達に身につけさせねばならないこと、それは、「いい生活をするための技術」ではなく「いい人生を送るための力」なのではないかと。さらに、その力を身につけるために最も有効な教育活動の一つとして部活動が存在していると思うのです。「世の中にはお金で買えないものがあり、それは目に見えないものだけど、お金よりもはるかに価値があるのだ」と。そのことを、教師とよばれる人達が訴えなければいけないのだという使命感のようなものを感じてやってまいりました。


 もう少しだけ考えましょう。それは、「全国大会に行くことが幸せ」というのと「いい学校に入ることが幸せ」というのは、どこか似ていると思いませんか?という話なのです。私から見ると、この二つはまったく同じに見えるのです。それは、どちらも到達目標があって、そこに到達することイコール「幸せ」という考え方なのです。本当にそうなのでしょうか?なんか違うような気がしませんか?私は全然違うと思うのです。「幸せ」とはそんなものじゃない。


 「全国大会に出た」とか「全国大会で決勝トーナメントに上がった」とか聞くと、「うわー、すごいですね」と人が言うのです。だから、それが聞きたくて、そうやって人に讃えてもらえると嬉しいから、そう言われることを「幸せ」だと思って、頑張っていらっしゃる方もひょっとしたらいらっしゃるかもしれません。こういう方々を私は「名誉志向型の人生」とお呼びしているのです。これを手に入れることが「幸せ」と思って追求するもの。それが何なのかによって、その人の生き方が決まってくるように思われます。大別すると、人は次の三つのタイプの人生を送っておられる方が多いようにお見受けします。つまり「財産志向型」「権力志向型」「名誉志向型」の三種類ですね。


 「財産」「権力」「名誉」この中のどれかを手に入れることが「幸せ」であると思っておられる方が圧倒的に多いように思うのです。中でも現代の大人に多いのは、「財産志向型」の方達で、先ほど申しました「いい生活」を手に入れることが「幸せ」と考えておられる方がこれにあたります。「お国のために死ぬ」ということを美徳としていた戦時中は「名誉志向型」の人達の方が多かったのではないかと思います。現代の政治家の方々はやはり「権力志向型」の人達が大多数だと思います。


 このように、社会の進展にともなって、大人の持つ「幸福観」というものが時代とともに変化してきたのです。そして、いつの時代も決まってその犠牲にされてきたのは子供達ではなかったでしょうか。


 「いやいや、私は違います。子供の夢を叶えてやるのです。それのどこが間違っていますか。」とおっしゃる方もいらっしゃることでしょう。いやいや、間違ってはいません。夢に向かって努力することは大切です。そこに「努力」できるという貴重な資質を養う取り組みがあるのですから。私が言っているのは「夢」を持つことは大切です。しかし「夢」=「幸せ」ではないと思いますということです。「夢」という自分の到達点が「幸せ」なのではなく「夢」を追って懸命に努力している姿が「幸せ」なのではないかということなのです。


 「幸せ」というものを「到達点」で表そうとした瞬間に、「不幸せ」が存在するということに気づいておられるでしょうか。つまり、その到達点に達することを「幸せ」と規定してしまった場合、そこに行けなかったら「不幸せ」ということになってしまう恐れがあるのです。「全国大会=幸せ」「いい学校=幸せ」というような、「到達点」を「幸せ」と捉えるところに無理が生じてしまうように思います。そういう価値観が蔓延した結果、「いい大学」に合格した瞬間に「幸せ」の獲得が終了した子供達は、とたんに勉強しなくなるのです。そこがゴールだと思わせたのは私達大人だったのではないでしょうか。


 私は、「幸せ」というのは「どこまで行ったか」というような「行為の到達点」ではなく、「どのように戦ったのか」という「行為の内容」で決まるものだと思うのです。部活動に限って言うならば、それが市大会であろうと県大会であろうと関係ありません。「ちょっと聞いてくれよ。僕はね、(私はね)最後の戦いをこんな風に戦ったんだよ。」というものを残してあげること。それが子供達が将来、人の親になったときに、我が子に誇りを持って語ってあげられることなのではないでしょうか。それが私たちが彼らに残してあげなければならないものだと思うのです。「将来、我が子に胸張れるものを残してあげる」これこそが彼らにとっての財産なのだと思うのです。


 また、こんな考え方も存在します。「全国大会出場」を子供達の「夢」にしてしまっていいのですか?それを「夢」にしてしまったとしたら、「全国大会出場」を果たせなかった子供達は夢破れた子供達ということになってしまいませんか?それは挫折感となって子供達の人生を引きずることにはならないでしょうか?


 これが、「勝利至上主義」反対と言われる方々の意見だと思います。でも、私の見方は「全国大会出場」を「夢」にして一向にかまわないということです。はい、一向にかまいません。子供達がそれを夢見るなら、そこに向かって挑戦させるべきです。努力させるべきです。夢破れたらどうする?夢破れてもかまいません。なぜなら、「夢破れた子供達」は決して「不幸」な子供達ではないからです。挫折感を味わう?それは決して挫折ではありません。それを「挫折」と受け取るか、「学び」と受け取るか。「学び」と受け取らせるのが指導者の仕事、大人の仕事ではないでしょうか。「夢」イコール「幸せ」ではないのですから。


ここで、一つのエピソードを紹介いたします。


N中学校第3期生キャプテンの男子T君。2010年4月入学。私の選手の中では唯一の左利きのカットマンである。2012年春の全国選抜大会団体戦ベスト8。2011年、周囲の教師達から生徒会長に推されるも「僕には夢があります。それはみんなを連れて全国大会に出場することです。」と言って固辞した。


そんな中、2012年の夏の大会が始まったのです。当時、夏の県大会の組み合わせは前年度の新人戦の県大会の結果によってシードが決まっていました。2011年、中2の時にN中学校男子卓球部は新人戦県大会優勝。いや、それだけではなく、それまでのすべての県内の公式戦において全試合優勝。一敗もすることなく夏の大会を迎えたのです。


 ところが、この年の春、とんでもないチームが筑豊地区に出現します。A中学校。日本全国から有望な選手を集めて作られた学校でした。当然、前年度の新人戦県大会には出場しておらず、したがって筑豊地区はノーシードでした。夏の県大会の組み合わせ抽選では北九州市の1位と準決勝でぶつかるのです。


 そしていよいよ、夏の市内大会が始まりました。決勝戦の相手はB中学校。公式戦においては1度も負けたことがない相手です。私は悩みました。T君は生徒会長の職を固辞してまでも、チーム全員を全国大会に連れていくことを我が使命として戦い続けたキャプテンでした。この決勝戦、負けて2位になりさえすれば、このT君の夢を叶えてあげられるのです。選手達の夢を叶えさせてやることを顧問の仕事であると定義するならば、ここで、わざとB中学校に負けることがその仕事をすることになります。実際に「そうすべきではないだろうか」と私にアドバイスをしてくれた方もいらっしゃいました。


 私は試合開始前に全員を集めて言いました。
「いいか、全力で勝ちにいく。私は今までお前達にそう教えてきたよな。何があっても目の前の相手に100%の力でぶつかることがスポーツマンシップだと」
「はい」
「だから、この決勝戦、全力で戦ってスポーツマンシップを見せてやれ」
「はい」
 結果は3対0の圧勝でN中学校の勝利。市内大会優勝。そしてその結果、彼らの全国大会出場の夢は大きく遠のいたのです。
 そして迎えた夏の県大会、準決勝。結果は2対3の敗北でした。T君は泣いていました。双子の弟のM君はラストで自分がみんなの夢を叶えさせてやれなかったことによる責任感から号泣していました。そして、決勝戦、A中学校対B中学校は3対1でA中学校の勝利。A中学校が優勝を飾りました。


 私の選んだ道は果たして正しかったのでしょうか?結論から言いましょう。あれは正しい選択でした。なぜ、そう言えるのか?それは、私の退職を知って、今年の3月の末、この時のチームのメンバーが他県に引っ越した1名を除き、7名全員が私のところに退職のお祝いを言いにやって来たことから明白です。


 全員が、私の選択に感謝しているのです。「先生、もしあの時、先生がB中学校にわざと負ける道を選ばれていたなら、僕達は今日ここに集まることはなかったと思います。なぜなら、僕達の胸の中には「わざと負けた。わざと負けて全国に行く道を選んだ」という後ろめたい気持ちが、いつまでも心の中に残されてしまうからです。でも先生は僕達に最後の最後までスポーツマンシップというものを教えてくださいました。本当に感謝しています。僕達は最後の夏の県大会、準決勝のA中学校戦を忘れることは永久にありません。ありがとうございました。」


 これが、その時のT君の言葉です。大切なことは全国大会に行くことではなかったのです。最後の夏の大会は、負けたら引退。しかし、どこかで負けるのです。最後まで負けないチームは1チームだけ。それは、全国制覇したチームだけなのです。そうであるならば、大切なことは「どこで負けるか」ではなく、「どう負けるか」ではないでしょうか。


 子供達が最後の戦いを目前にしているまさにその時、顧問が心しなければならないのは、最後の最後に、一生涯、心に残るような試合を子供達にプレゼントしてあげられるかどうか、この一点に尽きると思います。
 以上がN中学校男子卓球部8名の戦いの軌跡です。春の選抜全国大会ベスト8。そして、最後の夏の県大会ベスト4を胸を張って生きていけるメンバーの戦いでした。彼らは「福岡県大会史上、過去最強のベスト4」であり、おそらく未来に渡っても「最強のベスト4」という勲章を手に入れたのです。


 そしてこの年、福岡県の男子はA中学校とB中学校の2チームが全国大会に出場を果たしました。



③人間力(生きる力)を身につけさせる。


 「生きる力」と言いますと、「総合的な学習」が目標とするところの「力」ということが頭に浮かぶのですが、人間に内面的な力を身につけさせるのに、一週間にわずか数時間の学習でそんなことが可能なのでしょうか?そこのところが最初から無理な話であって、それは人間という生き物に対する研究が足りないと思うのです。


 「生きる力」これは紛れもなく人間の内面的な力です。内面的な力、それはどんなものがあるのでしょうか。「勇気」「忍耐」「持続力」「指導力」「包容力」「協調性」等々。しかし、その内面的な力というのが勉強で身につくものかどうか。答えは「ノー」でしょう。だから「体験的な学習」で身につけさせる。でも、その時間は毎週2~3回。それで身につくでしょうか。答えは、やはり「ノー」でしょう。こんな力は、毎日毎日地道な実践を繰り返す中でしか身につくわけがないのです。


 勝てば甲子園。負ければ引退という重要な一戦。9回裏。ツーアウト満塁ツースリー。スコアは0対1で我がチームが負けています。バッターボックスに立つ佐藤君。超びびる佐藤君。なぜって、次の一球で自分のチームが勝つか負けるか決まるからです。甲子園か引退か。チーム全員の運命を背負ってしまったのです。投げるピッチャーの田中君。超びびる田中君。なぜって、強打者の佐藤君に第一打席も第二打席もヒットを打たれているのです。しかし投げなければならない。失投すれば一打逆転サヨナラ負け。「誰か代わってくれないか。ピッチャー交代はしてくれないのか。」とベンチをのぞき込む田中君。しかし、ベンチは動く様子はありません。運命の第6球目、大きく振りかぶって。投げたー。


 ここには間違いなく、内面的な力を身につける活動が存在しています。これは絶対に1時間目から6時間目までの授業では体験できるものではありません。こんな切羽詰まった状況は、部活動であるからこそ経験できるものなのです。そして、この場面の次に訪れる光景は何でしょう?


 そう、決まっています。どっちが勝とうが負けようが、そこに現れる光景は涙なのです。涙って何でしょう?それは感動の結果です。私の哲学、「人は感動によって変わる。」「教育とは感動でなければならない。」なぜなら、教育とは人を変える(ちょっと悪い言い方でしょうか。「人を成長させる」ならいいですか?)ことがその使命なのですから。


 1時間目から6時間目までの授業で私は子供達が感動の涙を流す姿を見たことがありません。それもそのはず。あれは「人を変える」という取り組みではなく、「人類の知的財産・文化を受け継ぐ」という取り組み。つまり目的が違うのです。そうなのです。1時間目から6時間目までと放課後の部活動では、同じように教育活動ではありますが目的が違うということなのです。そして、そのどちらもが同じように重要な取り組みであることは間違いありません。


2.部活動の目的


 先ほども述べましたが、今度は目的です。つまり「何のためにそれをやってるの?」という話です。教師というご職業の方は「何のために教師やってるんですか?」ということです。「生活のため」なんていう寂しいことは言わないでくださいよ。教師がそんなこと言ってたら、さきほどの「いい生活をしたいから」と言ってた勉強のできる生徒を大量生産してしまうだけなのです。でも、普段は忙しすぎて考える暇もなくその日その日を精一杯に生きておられるみなさん、「あいつ、退職して暇になってるからそんなことばっかり考えるんや」とかおっしゃらずに、いっぺん考えてみてほしいのです。「私は何のために教師やってるんだろう?」って。ぜひ考えて、子供から「先生、先生は何のために先生やってんの?」って尋ねられたら即答できるようにしておいてほしいのです。それが、子供をがっかりさせない大切なことなのですから。


 そして、できたら、こう答えてあげてください。「それはね、君を幸せにするためだよ」って。または「君を幸せにしてあげられる人間になるためだよ」って。そう答えてあげられるようになるために毎日毎日実践して、来る日も来る日も遅くまで残って戦っている皆さんの姿があるのですから。



 私は「部活動の指導は何のためにやっているの」と聞かれたらそれは、「人作り、仲間作り、思い出作りのためやんか」と答えるようにしています。


①人作り
 「感謝の心を持った人」「責任感のある人」「真剣に取り組む人」そんな人を育てたいと思っています。部活動は教育です。教育ですから「人作り」が当たり前なのです。そして「人作り」は、「感動体験」によって可能となります。


②仲間作り
 「人は出会いによって知人となり、話し合って友人となる。そして、助け合って仲間となる。」


「仲間に助けられて強くなったんだ。だから恩返ししたいんだ。」という意識がチームの中の、あの子の中にも、この子の中にも横溢していますか。「感謝の心があるから頑張れる」このことを指導者は知っておいてほしいのです。
 私がいつも子供達に訴えるのは「保護者の愛に対する感謝」と「自分と打ちあってくれる仲間の愛に対する感謝」の二つです。「君の親が君に卓球をさせてくれている。感謝してるか。」「君の仲間が君のレベルを上げてくれてる。感謝してるか。」この二つを私はよく言います。


 また、エピソードを一つ紹介します。


 N中学校女子卓球部Mさん。初代キャプテン。右利きカットマン。
 私がN中学校に赴任した当時、今から7年前はN中学校には女子卓球部はありませんでした。Mさんが小6の時のことです。N中学校で学校説明会がありました。この中学校では学校説明会の日に、部活動見学が行われます。


 ただし、私は練習場には行きません。私の怒鳴っている姿を見たら小学生は入部してこないからです。しばらくして、職員室をノックする小6の女の子がいました。Mさんです。
「こんにちは、Mといいます。卓球部の顧問の先生はいらっしゃいますか?」
「はい、私が顧問です。」
「私は卓球部には入れないんでしょうか?」
 私は正直、驚きと同時に面倒くささを感じました。
「そうか、君は卓球部に入りたいんだね?残念ながら、この中学校には女子卓球部はないんだよ。」
 しかし、まだ小学生なのにもかかわらず、職員室のドアをノックする勇気に敬意を表して、彼女にチャンスをあげることにしたのです。「卓球の団体戦は6人なんだ。もし、君が入学してから、6人のメンバーを集めることができたら、女子卓球部を作ってあげよう。」


 しかし、彼女は真剣でした。入学後、見事に6名のメンバーを集めて、私の前につれてきたのです。それで、私は約束通り、女子卓球部を作ることになりました。彼女の笑顔を見ることができました。しかし、彼女が中2の時の4月に運命の時が訪れたのです。
 私自身のI中学校への異動。彼女にとっては青天の霹靂だったのです。「先生、私、先生について行っていいですか?」悩み通した挙げ句に彼女は私に訴えてきました。私の答えは決まっていました。


「それは駄目だ。お前が板櫃に来たらどうなる?今、板櫃にいるレギュラー選手の一人は間違いなくレギュラーから外れることになるんだよ。お前はその人の不幸にどう責任を取るつもりなんだい?人を不幸にしながら、自分だけが幸せになっていいのかい?それに第一、お前が集めたあの5人のメンバーをお前は裏切ることになるんだよ。残される人の悲しみを考えたことはあるかい?」


 Mさんはそれから、数日間泣き続けたそうです。そして、迎えた夏の大会、N中学校女子卓球部は見事に念願の県大会出場を果たすことができました。Mさんは県大会が終了して、引退した直後から放課後毎日、I中学校に練習に通ってくるようになりました。
 「これでやっと先生の弟子に戻ることができました。」彼女は本当に嬉しそうでした。これが、N中学校女子卓球部初代キャプテンMさんの生きざまです。
 部活動指導の目的「仲間作り」の原点がここにあるような気がします。「何があっても絶対に仲間を裏切るな。」「仲間を、目の前にいる君の大切な人を、幸せにするために戦うのです。」「それが人として自分が幸せになるための正しい生き方なのです。」こんなことを教えてあげるのが指導者の努めだと思うのです。



③思い出作り


 前にも述べましたが、私達は子供達に何を残してあげられるのか。それは将来、子供達が私達同様、大人になって、人の親になった時に、我が子に胸を張って語ってあげられるものが何かあるかどうかということです。それを作ってあげることが部活動の大切な目的なのです。


 「優秀な高校に入ったんや」とか「全国大会に出たんや」とかではなく、「お父さんはなあ、子供の頃、こうやってがんばったんだよ。」「お母さんはねえ、あなたと同じ歳の頃、こうやって戦ってたのよ。」それを聞いた子供達はどうでしょうか?「うわー、僕のお父さんすごいんやあ。僕もお父さんみたいになりたいなあ。」「私のお母さん、なんてかっこいいの。尊敬するわ。」とこうなります。ここに幸せな家庭のリングができていく。世代を越えて幸せな家庭作りに大きな貢献をもたらすことになるのです。


 ですから、「思い出作り」と言っても、この「思い出」は、いつか思い出して自分が過去の喜びに浸るというような思い出とはちょっと性質が違うのです。この「思い出」は実際の生活の中で生かされる「思い出」であり、家庭の幸せの役に立つ「生きた思い出」なのです。



 最後に私のメールへの先ほどの男子キャプテンT君の返信を紹介させていただいて話を締めくくりたいと思います。



T君からの返信
 「あの時、私はわざと負けるということだけは絶対にしたくなかったし、先生もそれを望むことは絶対にしないだろうとわかっていました。いつでもどんな時でも相手に100%の力でぶつかる。いつも教えて頂いていた言葉、今でもはっきりと覚えています。
 先生に出会ってスポーツマンはどうあるべきかを本当の意味で理解できたと思っています。そしてこの事は社会人になった今でも私の心の支えとなっています。感謝してもしきれない、二度と体験できない3年間をありがとうございました。先生に教わったことをこれからの自分の糧として頑張っていきます。」


 言葉で、何かを伝えなくても、キャプテンはわかってくれていました。たとえ自分の夢が叶わなくなろうとも、もっと大切なことのために、人は戦わなければならないこともあるのだということを。そしてその道を選ぶことが正しい人生の選択なのだということを。






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