こころゆくまで

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恩師に捧ぐ

【一人の人との出会いを大切に】


 結婚式に出られたことありますか。受付で座席表をもらいます。それで自分のすわる場所を確認するのですが、それと同時に私達が気にするのは、隣にすわられる人は誰なのかということですよね。知ってる人だったら、ちょっとホッとしませんか。逆に右も左も知らない人だったら、ちょっと心細い気持ちになりませんか。それとも「おっ、知らない人だ。どんな人かな。楽しみだな。」と思って、わくわくしますか。


 でも、知らない人の方が面白いことが起こるかもしれません。今日来ていただいた人達が卓球関係者の方だけではないのは、そういう意味があります。人との出会いが人生を変えるからです。そしてまた、私自身が35年間、卓球という部活動に関わってきましたが、別に卓球でなくてもよかったと思っているからなのです。皆さんの共通項は一つです。子供と関わっているという一点です。


 私自身、こんな人生になってしまったのは、すべて人との出会いによって起こったことなのです。相田みつをさんが次のように言われています。「そのときの出逢いが、人生を根底から変えることがある。」本当にその通りだと思います。


 私の父の出身学校は高専なのですが、息子も高専なのです。父の仕事は「機械」、息子の仕事は「電気」。私はなぜか「英語」。これ変ですよね。だって、私が高校時代に一番得意だった教科は「物理」だったのです。それがなぜに「英語の先生」をやる羽目になったのか。それは高校時代、2年と3年の担任の先生が英語の先生だったからなのです。


 「S先生」この人との出会いがなかったら、私は英語教師になっているはずがないのです。なにせ、中学時代に一番成績が悪かったのが「英語」だったのです。大嫌いでした。教科書が読めなかったのですよ。この先生との出会いがなかったら、たぶん私の仕事は「機械」か「電気」か「物理」だったに違いないのです。それがはたして良かったのか悪かったのか。


 高校に入っても理数系の成績はいいのに、英語の成績はいつも欠点すれすれ。それで、ついにある日、先生に職員室に呼ばれることになったのです。何が人の人生を変えるかわかりません。この先生が、この日私を職員室に呼ばなかったなら、私の英語の成績を気にしなかったなら、私が英語の教師になることはなかったと断言できます。


 教師という存在は、簡単に生徒の人生を変えるだけの大きな存在なのです。いや、教師だけではありません。人間そのものが他人に対する接し方一つで、その人の人生を変えることが起こるということを実感している次第です。


 S先生は私におっしゃいました。「君は英語の成績だけがすごく悪いけれど、なぜなんだ?」「英語は苦手なんです。」「そうか。ところで、君はゲーテという人を知っているか?」「ドイツの人ですよね。」「そうだ。そのゲーテという人がこんなことを言ってるんだ。『好きなことをやるよりも、やるべきことを好きになろう』」「はい、それがどうかしましたか」「英語は好きか嫌いか、どっちだね」「嫌いです」「では、大学進学を目指している君にとって、英語はやるべきことか、やらなくてもいいことか、どっちだい」「やるべきことです」


 だんだんと、この先生の魂胆が見えてきます。「それなら、このゲーテが言っているように、英語を好きになるべきじゃないのか」「きた、きた、きた、来た~」っと、内心そう思いながらも、私の負けじ魂が顔をもたげてまいります。


 「では先生、どうすれば、私は英語が好きになれますか」しかし、相手は昼間は炭鉱で働き、昼食時間にはボタ山に登って、覚えた辞書を1ページずつ食し、夜は定時制高校に通い、帰宅後も勉強。眠くなると左手に握った錐で太ももを突いて、ズボンを真っ赤に染めながら勉強し、国立九州大学に主席合格、そのまま主席にて卒業されたという猛者。私ごときひよっこが太刀打ちできる相手ではなかったのです。


 「そうら、食いついてきた」とばかりに、先生の眼鏡の奥の瞳がキラリと光りました。「では君、こうしよう。今日から毎日、放課後、私のところに英語の教科書を持ってくるんだ。そして私の前で、その日に習った教科書のそのページを読むんだ」


 「えっ?」しまったと思った時には手遅れでした。私は若気の至りか、まんまと、この50がらみの教師の手に落ちてしまったのです。その日からというもの、私の地獄の毎日が始まりました。毎日毎日、来る日も来る日も、放課後に私は職員室で英語のリーディング。しかし、読めない文が出てくると厳しい叱責が飛びます。周りの他教科の先生方が苦笑しておられます。


 悔しいから、こちらも作戦を立てます。放課後になる前に、英語のできのいい生徒を捕まえては、その日に習ったページで読めなかった文の読み方を尋ねては、鉛筆でうっすらとカタカナで読み方を書いては職員室へ。ところが、この人生の達人には、こっちのそんな作戦なんか、すべてお見通しなのです。私が読み終えると、机の中から消しゴムを取りだしてはこのようにおっしゃいました。「君、そんなに上手に読んだのでは、職員室の先生方には面白くもなんともないよ」そう言いながら私に消しゴムを手渡されます。私は鳩が豆鉄砲を食らったように、ポカーンと開いた口がふさがりません。そして、がっくりと肩を落としながら、教科書に薄く書いたカタカナを消すのです。


 「あはははは。『どうしてわかったのか』というような顔をしてるぞ。心配しなくとも良い。誰かが君を裏切ったわけではないからね」まさしく私は、その瞬間「くそっ、ちくられた」と思ったのですが、先生の口から出てきた次の言葉は意外そのものでした。「心配しなくて大丈夫。毎年こうなのだから。10年たとうが20年たとうが生徒の本質は変わらんよ。」そうなのです。こともあろうか、この先生は、毎年毎年こうやって、成績不振な生徒を放課後指導しておられたのです。


 その瞬間、私の目から訳もわからず、ぼたぼたと流れ落ちる涙を拭うことも忘れ、私の口から出た言葉「先生、すみませんでした。」


 「あはははは。君もやっぱり私の思ったとおりの生徒だったね。これでもう大丈夫。」
何が大丈夫なのか、今となっては、はっきりとわかるのですが、この時はまだ、言われている意味もわかりません。とにかく、「この先生の期待を裏切るまい」そんな決意だけがふつふつと炎のように心に燃え上がった記憶だけは、今もはっきりと覚えております。


 実はこの時が、私が生まれ変わった瞬間なのでした。その日以来、私はがむしゃらにひたすら英語だけの日々。家に帰ってからも英語の教科書しか開かない。そのせいなのか、その甲斐あってというべきか、一番得意な物理の成績がぐんぐん落ちていき、代わりに英語の成績がぐんぐん急上昇。てっきり理系の大学を志望するとばかり思っておられた物理のN先生が、私が文系の大学志望になったのを知って、たぶん、悔しかったのでしょう。私の教室までわざわざやって来られて、しかし笑顔でおっしゃいました。「また、今年も一人、ミスターSに人生を変えさせられた生徒が出てしまったなあ。」


 その時、私はすでに心の中に「S先生のような教師になるのだ」との堅い決意があったのです。別に英語が好きになった訳ではないのです。ただ、私のような、学校帰りにくわえタバコ、喫茶店に寄り道しては、学ランのまま喫煙のやり放題。そこから友達と小銭を出し合ってパチンコ屋に寄っては、終了させた金で、喫茶店の付けを払って帰る日々。玉が出ていない音楽のM先生に玉をプレゼントして意気揚々と喫茶店に帰って行くのが嬉しくてたまらない。高校三年ではしょっちゅう友達の家で宴会を開いては全員ゲロを吐くまで飲み明かす。毎日毎日徹夜麻雀。こんなどうしようもない生徒だったのに、そんな私を信じてくれたこの人を裏切るわけにはいかなかった。


 一言で言えば「好きだった」いや「好きになった」のです。この先生のことを。自分の意志ではどうしようもなく、「好きになってしまった」のです。好きになったのは英語ではないのです。この先生だったのです。人間だったのです。


 そして月日は流れ、気がつけば私は中学校の英語の教師を退職する年齢となってしまいました。この素晴らしき人生を私にプレゼントして下さった先生にお礼を申し上げねば罰が当たります。私は飯塚の自宅に今もお住まいのS先生を訪問させていただきました。 もう90歳というご高齢にもかかわらず、かくしゃくとしておられるお姿を拝し、ホッといたしました。「先生、なんとか無事に教員生活を終えることができました。これもひとえに先生のおかげです。ありがとうございました。」


 そのように言うと、かぶりを振り振り、しかし、私のことははっきりと覚えておられました。「今の私があるのは、紛れもなく先生のおかげであります。」先生は照れ笑いをされながらも、とても嬉しそうにしておいででした。でも、例の眼鏡がありません。「どうなされましたか」と尋ねると、「いやあ、脳溢血を患ってね、そうしたら老眼が治ってしまったよ」と笑われました。私は「いつまでもお元気でいて下さい」と伝えるのが精一杯でした。涙をぐっとこらえて、わざと微笑みを浮かべたのですが、たぶん先生にはこんな私の所作もお見通しに違いなかったのです。


 「従藍而青(じゅうらんにしょう)」という中国の言葉がございます。正確には、「青は藍より出でて、しかも、藍より青し」であったと記憶しております。「青」という色を作るのに、昔は「藍(あい)」という植物から作ったのですが、ところが出来上がった「青」の色は、もとの「藍」という植物よりもずっと青いというわけで、ここから「出藍の誉れ」という言葉も生まれております。「守破離」にも相通ずる言葉でございいますが、ここから、「我が師を越えることを我が使命とせよ」という教えが生まれるのです。


 しかし、これは難しい。「さんざんに頑張ってみて、これで越えることができたかな」と思っても、やっぱりまだ届いていない自分がおります。これはいつまでも続く師弟の道の深さを教えていただいている。そのように思って、今日も教鞭を執らせてもらっている次第であります。


 「先生、またお伺いいたします。」そのように言って、ご自宅を辞させていただきました。しかし、先生のおっしゃるとおり、いつの時代も生徒は同じ。歴史は繰り返します。
去年、かつての私の教え子で卓球部の選手だった、現、慶成高校卓球部顧問のI君が、花嫁さんを連れて私の自宅を訪問。「現在の私があるのは、先生に殴られたおかげです」うーん、やっぱり追い越せません。「殴られた」が余計でございました。

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