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龍馬と平和

坂本龍馬という人の特徴は、人との出会いを通して、時とともに、自分自身を大きくしていったことにあります。まず、初めは土佐藩が彼には小さくなりすぎました。そして彼は、平然と脱藩。この当時、誰もが自分の藩を尊皇か佐幕か、いずれかにしようと、あくせくもがいていた時代にあって、藩が自分に小さいから出ていく、などという発想のできた人間は龍馬だけだったと思います。


さらに、薩長同盟を成し遂げ、徳川慶喜に大政奉還をなさしめ、皆が新政府の要人たらんとしていた時、龍馬にとっては、すでに日本一国でさえも小さすぎるものとなっていたのでしょう。新政府の要人なんかには何の未練もなく、世界に雄飛しようとしたのです。


ところが不運にも、その志なかばで龍馬は帰らぬ人となってしまいました。龍馬は世界に出て行こうとしていた。もしも、彼が現代に蘇って世界に出て行ったなら、彼は真っ先に何を成し遂げようとするでしょうか。それは世界平和。世界不戦に決まっているのです。


なぜなら、あれほどまでに人と人が殺し合うのが嫌いだった龍馬。イデオロギーを超越して命の尊さを誰よりも尊重していた龍馬なら、まっすぐに平和というものの価値観に向かって突き進んで行ったに違いありません。そして、日本の、日本にしかできないと思われる精神性、「水に流す」文化、「許してしまう」文化こそが、世界を救う唯一の道なのだと、声高らかに歌い上げていたのではないかと思うのです。


そこから始めて、いや、そこからしか人類は世界平和、世界不戦への第一歩は踏み出せないのではないか。いつまでも、やられたことを恨んでいても自分に幸せが訪れるわけではない。さらに、相手をやっつけて、自分の憂さを晴らしてみたところで、相手に恨みを買うだけで、そのことが自分の幸せにつながるかというと、そんなことは全くないわけです。こうやって、子々孫々に至るまで恨みあい、殺しあいを続ける結果しか生まないというのに、それでも自分の憂さ晴らしを続けていこうとする。


ここに人類の愚かさがあります。つまり、単純化してしまえば、「お前が悪い。お前が悪い。」と百万回連呼したところで、相手は「ああ、そうか俺が悪かった」なんて決して思うはずはなく、余計に腹を立てるだけなのです。そして「お前が悪い」と連呼する人間は、相手にその非を認めさせたいのでしょうが、「お前が悪い」イコール「自分は悪くない」ということにはならないということがわかっていないのです。「お前だけが悪い」のではなく「俺も悪いんだ」という発想がなぜ出てこないのか。これが、「人を責める時には必ず、相手のために逃げ道を作っておかないと」と言われる人間相互のコミュニケーションを円滑に行う道なのです。


失敗してしまった相手に対して、「ああそうか。失敗したのか。私も君にここを注意するように言っておかなかったのが悪かったんや。」と言う発想。これが必要なのです。なぜなら、「俺が悪い。俺が悪い。」と連呼しながら相手に喧嘩を売っている人間などどこにも存在しないからです。いつの時代にあっても、人に喧嘩を売る人間は、「100%相手が悪い。100%自分が正義」と思っている。だからこそ、日本独自の文化「喧嘩両成敗」って、やっぱり大事なことではないのかと思われるのです。


広島にオバマ大統領を迎えたお爺ちゃん、お婆ちゃんが言った言葉「オバマさん、あんたが落としたんじゃないけんのう」に代表される日本人独特の「許す、忘れる美徳」というものを世界唯一の被爆国日本は世界に発信してゆく使命を持っているに違いないと確信している次第なのです。

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