こころゆくまで

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幸せを呼ぶ三つの言葉

第一の言葉「ありがとう」


私達大人は子供達によく「感謝の心が大切です」とか「感謝の心を持ちなさい」とか言うのですが、感謝の気持ちというのをもっと端的に一言で表して「『ありがとう』って言いましょう」と言えばわかりやすい。そうなのですね。子供というのは確かに「感謝の心が大切だ」と言えば、それはわかるのですが、それを具体的にどうすればいいかとなると、それがわからない。それを「感謝の心」は一言で言えば「ありがとう」ということだよって言ってあげれば、子供は納得できるのです。


何もこのことは子供に限ったことではありません。大人でさえも、理屈はわかっているのですが、それをどのように自分の行動に結びつければいいのかとなると、はたと考え込んでしまうことが多いのです。


さらに、感謝が大事だと言っているわりには、私達はこの「ありがとう」という言葉をどのように使っているでしょうか。試しに私はある日、教え子達に聞いてみました。「今日、朝から今までの間に『ありがとう』って何回言いましたか。」すると、誰も答えられませんでした。つまり、わからないのです。なぜなら、ほとんどの人がこの「ありがとう」という言葉を無意識のうちに使っているからだと思います。ペンを借りては「ありがとう」。落とし物を拾ってもらって「ありがとう」これをほぼ無意識で使っているようです。


人の行動の95%は無意識で行われていて、意識的に行われる行動は全体の5%にすぎないと言われています。そしてこの言葉を意識して使えるように訓練することで、それは可能となる。つまり感謝の気持ちをしっかり持って「ありがとう」と発することの意識づけが次に必要なことではないかと思われます。どうせ「ありがとう」と言うのなら、気持ちを乗せて言いましょう。幸せが向こうからやって来ます。


例えば今日、家に帰って出てくる晩ごはん。いつもと変わらないかもしれないけど、一口食べたら「ああ、美味しい。ありがとね、お母さん」って言ったら、きっと明日はもっと美味しいご飯に巡り会えるのです。ほら、「ありがとう」が幸せを連れてきたのです。


さらに、明日の朝、自分が目覚ましで起きれなかったから、お母さんが起こしに来た。その時に、「なんで起こすの。もう5分寝ようと思ったのにー。」と怒りながら言ってしまったら、どうなるでしょう。お母さんきっと、「何なの、この子は。明日から絶対に起こしてやらないから。」となるでしょうし、それを「ありがとう、お母さん。お母さんが起こしてくれたおかげで遅刻しないで済むわ。」と言えばどうでしょうか。「あしたは、もっと優しく起こしてあげるわね。」と家族円満の幸せがやって来るのです。


心を込めて「ありがとう」。まさに幸せになるための第1法則。そして次にやるべきこと。それは、今度は逆に相手から、「ありがとう」って言ってもらえることを進んでやることではないでしょうか。「ありがとう」って心を込めて言うことで、相手は嬉しい気持ちになります。それだったら、相手から心を込めて「ありがとう」って言ってもらえたらどうでしょうか。今度はこっちが嬉しい気持ちになるに決まっています。意識の上で心を込めて「ありがとう」と言い、心を込めて「ありがとう」と言ってもらえる。これこそ、「和を以て貴しとなす」の聖徳太子の御聖訓の第一歩ではないかと思えるのです。



第二の言葉「ごめんなさい」


これは素直であるということなのです。そしてこれは、責任を自分で引き受ける姿勢でもあります。自分でやってしまったことに、いちいち言い訳をしない。自分で責任を取る姿勢をはぐくむ言葉なのです。そして同時にこれは自分の中に眠っている素直な幼な心を取り戻す言葉でもあるのです。


人は得てして、自分の非を認めたくありません。なぜなら、自分が責められるのが恐いからです。だから、自分のせいではないと言い訳をしようと試みるのです。そうやって自分の身を守ろうとする。それは生ある者の本能でもあります。それを敢えて諦めなさいという姿勢。自分の身を守ることと、自分が責任を取ることと、「どっちが大事なんだ。」と自分に突きつけられた時、自分可愛さを捨てて、他者のために自分が責任を取る道を選べるかという重大な選択がそこにあるのです。それを平然と、当たり前のごとくやれることを勇気と呼ぶのだと思います。これを意識の上でやれる人間にはどれほどの勇気が宿ることでしょうか。



第三の言葉「やってみます」


これは、目の前のことから逃げないということです。私達はよく面倒なことから逃げたいという無意識な気持ちから、つい「いやちょっと無理です」と言って、やってみなければ、やれるかどうかわからない事でも、最初から引き受けようとしないことが多々あります。「逃げる」と「挑む」は「しんにょう」と「てへん」の違いでしかありませんが、まったく真逆の意味になります。


「やれるかどうか」ということを問題にする必要があるのでしょうか。結果は後からついてくるものであって、結果を気にして努力することを最初から諦める姿勢は何も価値を見いだすものではないのではないでしょうか。たとえやれなかったとしても、やろうとした努力の事実は厳然と残るのです。結果として相手の期待に応えられなかったとしても、自分のために精一杯努力してくれたという事実も相手の心の中にはちゃんと刻まれるのです。他者に何かを頼まれたら「やってみます」と引き受ける度量を持ちたいと思います。




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