こころゆくまで

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悩みと幸せ

悩みのほとんどは人間関係によって引き起こされると言われています。今日はこの事を考えてみたいと思います。


いつもそうですが、人に対して何かを「しなければならない」って思っていたら、それは「やりたくなくても、やらなきゃならない」ということですから、自分にとっては苦痛に感じることもあるわけなのです。


そのうちに、苦痛が大きくなってくると、相手よりも自分の労力を考えるようになりやすい。


ついつい、自分の労力と相手の行動を比べてしまうのが人の常です。それがいいとか悪いとかではなくて、人間には比較するという能力が備わっているから仕方のないことなのです。


そこで、比べてみると、自分の労力に比べて相手の行動が、イマイチ期待にそぐわなかったりすると、心の中に曇りが出てきます。


「どうして、あの人は」って、ついつい思ってしまう。つまり、自分が相手に「してあげてる」という心が働いてしまっているのですね。


「してあげてる」のではなくて、「させていただいている」のに、その事をいつの間にか忘れてしまっているのです。


だから、誰かに何かを「しなければならない」という義務感による行動は喜びをもたらさないと思うのです。


「してあげている」と思っていると、その気持ちは見返りを求めるようになります。つまり、「これだけしてあげているのだから」と思う。その自分のことをこの人はどう思っているのだろうか」と、相手に評価を期待するのです。


相手は自分のことを評価しなければならないのでしょうか?そのような義務が相手にはあるのでしょうか?私達はつい相手にその事を求めたくなってしまう。つまり自分の努力を評価して欲しいと思ってしまうのです。


ここで問題になるのは、相手に何かを欲求しているということなのですね。


悩みの多くは欲する事から起こります。「欲しい」と思う心ですね。「お金が欲しい」「地位が欲しい」「権力が欲しい」「名声が欲しい」「幸せが欲しい」「愛が欲しい」「夫にこうあって欲しい」「妻にこうあって欲しい」「子供にこうあって欲しい」「上司にこうあって欲しい」「部下にこうあって欲しい」
この「欲しい」という心が仏教では煩悩といって、苦しみを生み出す元なのですね。


相手に何かを求めると、その求めた通りにならないと苦しみがわいてきます。この「欲しいということを望む心」を省略して「欲望」と言うのです。


では幸せはどこにあるのか。それは「求める」の対義語です。つまり「施す」ことにある。それが「さしあげる」という心です。


「理解してもらいたい」と、相手に欲するのではなくて、「理解してさしあげたい」と相手に施すこと。そこに幸せがある。


「理解してもらいたい」というのは自分の為。「理解して差し上げたい」というのは相手の為。このように自分を利する心「利己」から、相手を利する心「利他」へと心が変わったときに、全てが変わります。


人は自分でも気づかないうちに、人を自分の思う通りにしたいという欲求を持ってしまいます。人間関係で悩むのは相手が自分の思った通りにしてくれないからです。


特に長い時間接している家族に対しては顕著に現れます。


例えば、我が子に対しては「なんで、もっと早く起きないの」「なんで、昨日のうちに学校に行く用意をしておかないの」「どうして、こんな問題も解けないの」こんなのは子供を自分の思い通りにさせたいという欲求が満たされなかった時に口から出てくる言葉ですね。


もっとひどいのになると、「こんな問題も解けないなんて、あなたバカじゃないの」って。子供は評価して欲しいと思って聞いてるんじゃないのです。ただ、わからない問題の解き方を教えてほしいと思っているだけなのです。


つまり、わかるように教えてあげるのが愛情であって、わからない子供に腹を立てるのは筋違いですね。私だったらきっと言うでしょうね。「わからないよ。だって、あんたの子供だもん」


同じように、夫に対しても、妻に対しても、家族には甘えが許されるから、ついつい、口から出てしまいます。


「どうしてもっと真面目に働いてくれないの」「なんであの服を洗濯しといてくれないんだよ」


そんなふうに理由を聞かれたって、答えようがないというのに。理由なんかないのです。その時にその人の心に起こってくるのは「あなたの期待に応える必要があるのですか」ということなのですね。これでは間違いなく喧嘩になってしまいます。


実はこれは「理由」を聞いているのではありませんね。「理由」を聞く文章で本当は相手を責めている。こんな責め方をされると、相手は困ってしまいます。答えようがないからです。相手を困らせるのが目的の話し方。つまり、問題の解決を図るのではなく、自分のウサを晴らしたいだけなのです。簡単に言うと因縁をふっかけてる。


問題の解決を望むのなら、こうなります。「あなたに真面目に働いていただきたいから、私はこんなことを考えてみたの」とか「君に僕が何を着る必要があるのか言ってなかった僕も悪かったね」とかですね。


この言い方が愛情のある言い方なのですね。つまり、自分本意ではなく、あくまでも相手に寄り添おうとしています。


それを自分の気持ちだけを相手に押しつけてしまうと、相手が自分の期待にそぐわないと、たいていの場合はがっかりする。あるいは、自分が相手よりも上位にいると思い込んでいる人は怒ることになってしまいます。


このことを僕に教えてくれたのは僕の妻なのです。本当に妻には感謝しているのです。


次に家庭以外になりますが、例えば、会社内では、相手が他人なのでなかなか口には出せませんが、ただ、口に出していないだけで、思いは同じですね。「なぜ、あの部下は私の思いをわかってくれないのだろう」「なぜ、あの上司は私の努力を認めてくれないのだろう」


これらのすべての言葉を簡単に要約すると「私の気持ちをわかって欲しい」ということになります。そんな望みは得られるわけはないのに、得られると思ってしまうから苦しみがわいてくるのですね。


だって、これは自分の方からまず、相手のことを「わからせていただく」という施しをしないで、ただ、「わかってもらいたい」と、おねだりをしている幼児と同じなのですから。


「おねだり」これを欲求といいます。仏教用語で難しく言うと最強の三つの煩悩「貪欲」「瞋恚」「愚痴」という三毒の中の「貪欲」に当たるのですが、「貪欲」や「愚痴」という言葉は現代では違う意味で使われているので要注意ですね。


この場合の「貪欲」なのですが、「欲することを貪る」と書きます。つまり「欲しい」という感情に支配されている自分の心ということです。「こうして欲しい」「ああして欲しい」そのような欲求に自分の心が支配されてしまっている状態のことです。


以上簡単に見てきましたが、このように、人の悩みの大部分は自分と自分以外の人間や環境との間に起こる問題が縁となって起こってくる苦しみなのです。


「縁によって起こる」ですから、お釈迦様はそれを「縁起の法」として、今から三千年も前に確立されておられます。


それはさておき、ほとんどの人は、自分の「貪欲」に支配された心を観ることなく、相手をなんとかしようとする。環境をなんとかしようとする。


だからうまくいかないのです。自分自身の心でさえままならない私達が、ましてや自分以外の自分とは考え方や価値観まで全てが違っている人間を何とかできるはずはありません。


問題は相手を変えようと思う自分自身の慢心にあるのです。自分の考えが正しいと思っているから相手にわかって欲しいと思うのです。


実はその正しさは自分にとっての正しさであって、相手にとっての正しさではないのです。それを相手に認めさせる。それは無茶なことだと思います。


では、どうすればいいのか。自分が変わればいい。その人にとっての正しさを自分が受け入れてあげれば何も問題は起こりません。


それが相手のことを理解させていただくということなのです。


「相手を受け入れる」というのは、相手のことを理解し、共感するということなのです。その事によって、人間関係のトラブルは解消します。


昔、馬鳴菩薩という人がおられました。その著書「大智度論」のなかに次のようにあります。


「大海に衆流入る。返すことありや」。これは海というのは様々な川から流れが入ってきます。その川にはヘドロや工業用水で汚れた川もあれば、本当に清らかな水もあることでしょう。しかし、海の水は「お前はきれいな水だから入ってきていいよ」とか、「お前は汚れているから嫌いだ。入ってくるな」とか言って押し返したりするでしょうか。


そんなことをすれば、やがて海の水は太陽光線に熱せられて干上がってしまい、大きな海として存在することはできなくなってしまう。やがては小さな水たまりと化してしまうでしょう。海があのように広い姿でいられるのは、海自身が、清い水も汚れた水も分け隔てなく受け入れるからなのです。


相手を受け入れることによって、相手を受け入れるだけの度量をこちらが持つことになります。つまり自分の度量が今よりも一回り大きくなる。ちょうど海のようにです。それって幸せなことではないでしょうか。


次に、悩みの対象が人ではなく、自分を取り巻く環境の場合はどうでしょうか。
実は、それも同じことなのです。相手が人であっても環境であっても同じことなのです。つまり、悩みの原因を「自分以外」の人や環境のせいにしようとしている。自分のせいにはしたくない。なぜだと思いますか?


簡単です。自分以外のせいにしている限り、自分が苦しまなくてすむからです。誰でも自分が可愛いのです。でも、そこで逃げていいのでしょうか。辛かったら逃げていいのです。無理に我慢することはない。我慢はストレスの元ですから。


でも我慢できるのなら逃げないで挑めばいい。「逃げる」と「挑む」は「しんにょう」と「てへん」の違いではありますが、意味は正反対なのです。「挑む」とは、その弱い自分と戦ってその弱さをねじ伏せるということです。


これは大変な忍耐力を必要としますし、ストレスも大きくなりますので、あまりお勧めはしませんが、一気に決着をつけて自分を次のステージにもっていきたいという方にはお勧めではあります。


いずれにせよ、悩みがあるから、もがき苦しむ。悩んでいる状態においては、とにかくその悩みから解放されることが即幸せと思ってしまうところが、また私達凡夫の浅はかさなのでしょう。


悩みから解放されるだけでは、普通の平常な自分に戻っただけなのですが、すでに、その事を「幸せ」と思ってしまう自分があります。


それはそうです。あんなに悩み苦しんでいた地獄から解放されたのですから、ホッとして、これでもう「幸せ」だと錯覚してしまっているのです。


でも、本当にそうなのでしょうか。悩みがないことが幸せなのでしょうか?


悩みを一つ解決したら、次の悩みがやってくる。それが人生というものではないでしょうか?


そうなのですね。生きているということは悩みの連続なのです。一つ越えればまた一つ。「では、何のために生きてるの?」ということになる。


お釈迦様は「衆生所遊楽」この世は私達が遊び戯れる所と仰せです。つまり、「幸せになるためだよ」とおっしゃっておいでなのです。「悩みに次ぐ悩みの人生が幸せ?」そんな馬鹿な。誰もがそう思うのです。


なぜ悩みに次ぐ悩みが幸せなの?ということになります。結論から言います。この結論から言うという方法を帰納法と申しまして、仏教のやり方なのですが、お釈迦様が言うには「あなたが悩みと戦っている。その無我夢中でがむしゃらに戦っている胸中にあなたは希望のともしびを燃やしている。その希望のともしびを幸せというのです」と。


そうなのですね。幸せというのはどこかにあるのではない。悩みと戦うあなたの心の中にある。そして、「あなたの心の中に毎日起こってくる悩みを波乗りをするかのように楽しんでいきなさい。それを幸せと言うのですよ」と。


言われてみればその通りです。何も起こらない人生なんて、退屈すぎて辟易することでしょう。何かがおこる。それは当たり前のことなのです。サーフィンを楽しむにはどうしても波が必要です。この人生を楽しむには、悩みという波がどうしてもひつようなのでしょうね。


これがお釈迦様がお教えになっている結論なのでございます。





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