こころゆくまで

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幸せな人となるために



 まず、幸せとは物ではないから手に入るようなものではありません。ですから探しても見つかるはずがありません。このことはメーテルリンクの戯曲「青い鳥」でもおわかりのことだと思います。


 ある日、チルチルとミチルの兄弟が幸せの青い鳥を探して旅に出る。しかし、どこに行っても見つからずに、帰ってくる。そうすると幸せの青い鳥は自分の家にいたというお話です。


 さらに、ドイツの詩人カールブッセの詩、上田敏訳の「やまのあなた」を拝することでも、よくわかります。


 やまのあなたの空遠く
 「幸」住むと人のいふ
 噫、われひとと尋めゆきて
 涙さしぐみかへりきぬ
 やまのあなたになほ遠く
 「幸」住むと人のいふ


 「幸せ」には二種類のものがあると思います。一つは「幸せになりたい」とか「幸せな人生を送りたい」という場合の「状態」としての「幸せ」。もう一つは、「私、今スゴく幸せ」という場合の「感情」としての「幸せ」です。


 つまり、「幸せな気持ち」という時の「幸せ」と「幸せな人生」という時の「幸せ」の二種類の違いです。この二つがごっちゃになってるので、話が分かりにくくなってしまうのです。


 「幸せになる」という意味の「幸せ」は前者の「状態」としての「幸せ」のことです。本当はみんな幸せになりたい。つまり「幸せな人生を送りたい」でも、「幸せな状態」がどんなものかがわからないから、みんなバラバラに、これが幸せな人生なんだと思ったものを追いかけているのです。そんな状態になりたくて。


 最近まで多かったのが、いい生活の追求。これはいい学校、いい会社、いい給料、いい生活と、これを幸せと規定して、大人達が子供に追わせようとしたものですね。それが一昔前の教育ママに代表される存在なのではないでしょうか。「お受験」だの「四当五落」だのあげくの果ては「裏口入学」。そうまでして、我が子を「いい学校」に入らせることが、幸せに直結する道だと信じて疑わない大人達の姿がそこにはありました。


 しかし、それはやむを得ないことでもあったのです。第二次世界大戦の敗戦後、当時の日本の大人達が戦勝国アメリカに見せつけられたもの。そうなのですね。そこには自分達の生活レベルとはまるで違った豊かな生活があったのです。「これこそ幸せなり。」そのように錯覚しても誰も責めることはできないと思います。そして戦後の焼け野原から雄々しく立ち上がったのが日本の大人達だったのです。そして勤勉な日本人は、一躍、経済大国と言われるまでの日本国を作り上げてきました。


 でも、いい生活は必ずしも幸せではなかった。いい人生が幸せなのであって、それはいい生活とイコールではなかったということに気づくことになります。最近になって「そんなのは自分の幸せではない」と気づき始めた子供達。自分たちが望む幸せは違う。裕福になりすぎて貧しさを経験したことがない子供達は貧乏という概念が理解できません。つまり、裕福を求める必要がなくなった子供達は大人の示す幸せというものに懐疑的にならざるを得ませんでした。そのへんも、ニートや引きこもりといった現代日本が抱える教育問題の契機となっていると思われるのです。


 しかし、昔からそのことは日本でも言われていたことではあったのです。それが「座って半畳、寝て一畳、天下取っても二合半」という言葉ですね。しかし、人は裕福な生活をしている人にどうしても憧れるのですね。羨ましいって思ってしまう。どうしても、今の自分と相手とを比べてしまう。そうして、その人の方が幸せそうに見えるのです。では、お金持ちの人が、自分のことを、お金があるから幸せだと思っているでしょうか。お金がある人はお金がある人で、今度は違うことで不幸を抱えておられるというのが現実だと思われます。


 では、「いい人生ってどんな人生なの」という話になります。それはたぶん利他の人生なのです。私もまだ人生の途中なので確定できませんが、人生の最後の日になって、いい人生だったと言い切れるかどうかは、自分が利他に生きたかどうかで決まるような気がしてなりません。利他というのは利己の対義語ですね。自分を利するのではなくて、他人を利すること。他人に幸せを運ぶことなのです。


 そうすると、どうやって他人に幸せを運ぶのかということになるのですが、その方法は三つあると思います。つまり、一つは「笑顔」。これは相手の視覚に対するプレゼントですね。作り笑いでもいいのです。相手の幸せのためですから。笑顔をもらって嫌な人はまずいないでしょう。次が「ありがとう」これが聴覚へのプレゼントですね。相手の目に「笑顔」を、相手の耳に「ありがとう」という感謝の言葉を。


 最後は心へのプレゼント。これは労働ですね。労働の労は「ねぎらう」「いたわる」と読みますが、どちらも心の言葉です。労働の働は「人」が「動く」と書きますが、これは中国から渡ってきた漢字ではなく、日本で作られた漢字です。相手をねぎらい、いたわりつつ、動くのですから、これが人の心を打たないわけがないのです。この三つをセットにして一人の人にプレゼントしていくことで、その人が幸せになっていく。そういう生き方を送ること。それが幸せな人生なのです。


 以上は「幸せな人生とは」という命題に対する私自身の解答なのですが、実は冒頭にお話ししましたが、「幸せ」にはもう一つあります。つまり、「状態」としての幸せとは別に、「私、スゴく幸せ~」と言う場合の瞬間の感情としての「幸せ」というものです。


 「幸せ」って何でしょう。まず「幸せ」というのは物質ではありません。場所でもありません。それは感情の一種が作り出すある状態のことだと思います。嬉しくってしょうがない。ワクワクしてしょうがない。ウキウキしてしょうがない。そんな感情が心一杯に広がった人間の精神状態を指して幸せであると規定しているのだと思います。そして、それは感情であるからして、一瞬のことに決まっているのです。


 ということは幸せな感情に満たされたいならば、自分にとって嬉しくってしょうがない出来事、ワクワクする出来事、ウキウキする出来事に出会う必要があります。いや出来事でなくてもいいのです。それは何でもいい。旅行でもいいし、自分がワクワクする人に出会うことでもいいし、感動する本に出会うことでもいいわけです。このワクワク感、ウキウキ感、この気持ちの中で日常を送っている人を幸せというのではないでしょうか。


 しかし、どんな人間も、朝、目覚めと共にワクワクしていて、夜、寝るまでずっと、「腹がへったよ」とか、「何だあいつは」なんて思うこともなく、ずっとワクワクしているなんてことはあり得ないのです。なぜなら、すべての感情は一瞬、一瞬、変化しており、一つの感情が常に一人の人間を支配していて永続的であるということはあり得ないからです。


 ところで、この「感情」としての「幸せ」というのは、どこから出てくるのでしょう。もちろん、自分の中からに決まっています。そして、その幸せ感は人によって大きな違いがあります。例えば、私が宝くじで百万円当たった時の嬉しさは、ビル・ゲイツが百万円当たった時の喜びよりも絶対に大きいと思います。


 これは何を意味しているのでしょうか。大きな喜びを得るためには薄幸の方がいいということなのです。さらに、ちょっとしたことにも大きく感動できる感性を持っているということも大事な条件といえるでしょう。


 感性、感じる力。一見、大した幸せではなさそうなことも、大きな幸せであると感じる力。それを身につけた人が幸せなのですね。どうやったら、そんな感性を身につけられるのでしょう。それは、すべてを肯定的に受け入れることを習慣にする。ただそれだけでいいのです。


 「汝、大海のごとく、川の水に好き嫌いなく、全ての流れを受け入れるべし。それ、大海が大海たる道なればなり」


 受け入れていくと自分の器が大きくなります。大きくなると何でも入る。海のようになります。好き嫌いなく何でも、ハイハイと受け入れていくと、そんな感性を身につけられると思うのです。逆に、もし海に心があって、「お前の水は濁っているから来るな。」とか、「汚れた水は受け入れません」とかいう風に受け入れを拒んだとしたら、たちまちに海の水は干上がって、あのような大海を保つことは不可能なのです。


 「習い性となる」という諺があります。習慣が感性を作ります。感性が性格となって現れます。何でも好き嫌いなく受け入れる習慣を身につけることが幸せへの道だと信じています。

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