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他者への攻撃は無知から始まる

バッシング(bashing):激しく非難・攻撃すること


バッシングには二種類あります。すなわち、「無知によって起こるバッシング」と「故意によるバッシング」の二つです。人は自分にとって理解できない物を攻撃するという習性を持っています。これを無知によって起こるバッシングといいます。これは「知らない」⇒「怖い」⇒「嫌悪感」⇒「排除」という行動パターンによって引き起こされます。


通常の人間関係におけるバッシングはこの無知によるものが大半なのです。これは動物の本能的なものですから、相手のことを理解できれば、その瞬間バッシングは消滅します。しかし、もう一つの故意に行われるバッシング。これは明らかに相手を攻撃するということが目的となっているために、なかなか消滅が難しいのです。故意に行うバッシングには、単に妬みからくるものと、相手をつぶしてしまわないと自分が困るという、自己保身の理由の場合との二つがあります。ですが、どちらにしても、このバッシングの方が無知からくるバッシングよりも厄介であることは言うまでもありません。


なぜなら、このバッシングは権力と、権力から流れてくるお金と、お金をもらって動くマスコミとが絡んでいることが多く、お金をもらって行う以上、そのバッシングは彼らの職業として成立しており、バッシング自体が仕事なのですから、そう簡単にやめるはずがないのです。


バッシングとは他者への攻撃ですから、当然大義名分が必要となります。そうしないと世論を味方につけることができないからです。つまり攻撃するという後ろめたさを隠すため、世のため人のためというふうに自分を偽って、大義名分を大上段に振りかざしながらやらかすのが、故意に行うバッシングの特徴なのです。そしてこれを、なにも知らない一般の人が聞いたら、「えっ、そうなの?」となる。驚きは人に伝えたい。しかも大げさに言って相手を驚かせたいという心理が働くために、尾ひれをつけて噂が広まっていく。つまり、無知によるバッシングまでも巻き込みながら膨れ上がるのです。そして気がつけば、いつのまにか手がつけられないほどの広がりを見せている。このように、マスコミによって意図的になされる情報操作。これほど恐ろしいものはありません。一人の人の人生を破綻させるなど造作もなく簡単にできるのです。


卑近な例としては、地下鉄サリン事件の首謀者にでっち上げられた男性。その奥さんは毎日押し寄せるマスコミの人達のために、ノイローゼとなり、ついに死に追いやらされてしまいました。さらにO-157の原因はカイワレ大根にあるという根拠のないニュースにより、大打撃を受けたカイワレ大根の生産農家の人が首吊り自殺を余儀なくされました。しかし、そのような悲惨な末路をマスコミの手によって遂げさせてしまったという事実を、自ら報道し自重を促したマスコミがあったでしょうか。この事件によってマスコミの自粛が行われたでしょうか。人が死のうが一向におかまいなし。この裏には権力とお金の構図があるからに他ならないと思われるのです。


そして、「マスコミはやりすぎだ」とか「マスコミは自粛すべし」だとかを大声で発言した有名人はどうなっているでしょうか。調べると簡単にわかることですが、大半の方は言論の自由に対する圧力であると弾劾され、逆にバッシングのターゲットにされてしまっています。政界を追放された政治家や芸能界を干されてしまった人達の中にはこういう人々が少なからずおられるということを忘れてはなりません。


しかしこの構図を私達はどこかで見覚えがないでしょうか。そうです。いじめられている子供を助けようとしたら、その助けようとした子供自身がいじめに逢ってしまうという、学校現場におけるいじめの構図と同じではないでしょうか。この構図は実は大人社会が生み出しており、その小型版が子供社会で繰り広げられているだけのことなのです。いじめにあった大人でさえも死に至っている人がいる。まして子供はなおさらのことです。大人社会のいじめを取り除かずして、子供社会のいじめが消える道理はないと申し上げておきたいと思います。


バーナード・ショー曰く、「人は自分が恥ずべきことをするとき、それをあたかも、自分の義務であるかのように言い張るものだ」。まさにこの通りなのです。いつもバッシングは世のため人のためを大義名分として行われてきましたし、最近始まったものではなく、大昔から行われてきたものなのです。昔は故意によるバッシングの多くは妬みから起こるものが主流でした。なぜなら、バッシングが職業化されていなかったからです。


バッシング被害の最大手と言えばキリストと釈迦だと思います。キリストも釈迦も言われなきバッシングの中を突き進んだのですが、とてもよく似ている点としては、この二人が、共に弟子による妬みによってバッシングを受けたことだと言えます。キリストはユダの妬み、釈迦は提婆達多の妬み。共に側近ともいうべき弟子によるものです。


キリストはユダの讒言によってローマ帝国から死刑にされてしまいます。釈迦は提婆達多本人から2度も命を狙われるという目に逢うのです。つまり宗教上に規定されている「迫害」という言葉は、バッシングという他者への攻撃が肉体的な苦痛にまで及んだことに対して使われているものに他なりません。


そして、私達が知っておくべきことは、このバッシングの嵐の大きさはその対象の正義の大きさと比例しているということです。つまり正義が大きければ大きいほどバッシングの嵐も大きい。小さなバッシングなどでは相手にもされないから必然的に大きくなるのです。つまり激しいバッシングこそ、正義の大きさの証明であり、胸を張って前進してよいという証に他なりません。つまり、キリストも釈迦も、彼等に対するバッシングの大きさが、そのまま彼等の偉大さを証明しているのです。いつの時代でも、どこにあっても、最も苦しんだ者が最も幸せになる権利がある。私はそう信じてやみません。

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