こころゆくまで

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弟と私

私には弟が一人おりました。彼は私より三つ年下で、重度脳性小児麻痺という大病を抱えて生まれてまいりました。片手の手のひらに乗るくらいの超未熟児で誕生した彼は、医師からは、命を取りとめるのは困難であるとの宣告を受けます。しかし、そこを何とかしてほしいとの両親の懇願によって、体中にありとあらゆる薬剤が投与され、その結果、命は取りとめたものの、引き替えにこのような病を持つに至ったのでした。当時の担当医からは、命は何とか取りとめはしたが、30歳までは生きれないだろうとの話が両親になされておりました。つまり、生まれながらに死の宣告を受けて誕生したのが私の弟でした。


しかし、本人には健常者の言葉を理解する力もなく、そのような現実を突きつけられていようとも、本人には何もわからなかったということが、せめてもの幸いだったのかもしれません。普通の赤ん坊であれば、生まれる時に「オギャー」と泣き声を上げるのですが、私の弟は泣く力さえなかったと聞いております。そのために生まれたばかりで、両足を持って逆さづりにして、背中を叩いて泣かせたのだと、後になって父より聞かされました。このようにして命だけは取りとめましたが、いくつになってもしゃべることもできず、立って歩くこともできず、ただ座ったままで、物は食すが、オシッコもウンチも垂れ流すので、いつもとても臭くて、年齢は小学校に上がる歳になっていましたがオムツは取れておりませんでした。さらに、脳がやられておりましたので、楽しいとか悲しいとかいう感情も健常者のそれとは異なっており、言葉は「あー」「うー」というような、常人から見れば、うなり声でしかなかったと思います。


しかし、どんな子供でも、やはり我が子。そんな弟を不憫に思ってか、両親は福岡市香椎にあった施設に弟をあずけることに決めました。そこで、どういう訓練がなされたのか知るよしもありませんが、1年後に自宅に戻ってきた弟は、ちゃんと両足で立って歩けるようになっていたのです。立って歩くと言っても、脳がやられてホルモンのバランスが崩れており、身長は150㎝ぐらいなのに体重は120㎏を越えるような巨体をのっしのっしと引きずるようにしか歩けません。わずか10メートル歩くのに5分もかかるというありさまです。それでも弟が歩けるようになったという喜びは両親も私も大変なもの。その日以来、学校から帰宅すると、近所の公園まで、弟の手を引いて連れて行っては一緒に遊んでやることが、私の日課になりました。


そしてもう一つの家族の喜びは、弟が言葉をしゃべるようになったことです。「あー」「うー」だけだった弟の言葉が進歩しているのです。お父さんを「とっと」、お母さんを「かっか」、お兄ちゃんの私を「にんに」。我が家の者にしか理解できない言葉ではありましたが、それは確かに意味のあるものとして、私たち家族にとっては、家の中を明るくしてくれる素晴らしいプレゼントでした。


弟を毎日連れて行く公園は、我が家のすぐ裏手にありました。しかし、そこまで歩いて行くのにも20分ほどかかります。しかも、公園まで行く途中で何回も休憩しないといけません。なぜなら太りすぎの弟には心臓にかかる負担が大きすぎて、1,2分歩いては「はあはあ」息を切らせてしまうのです。それでも私が公園に毎日弟を連れて行くのには一つの理由がありました。それは、その公園には砂場があったからです。なんにも楽しみのない弟ですが、砂場に座り込んで、砂をいじくっている間はとても嬉しそうにしておりました。私はそんな弟の嬉しそうな顔を見たい一心で、毎日、弟を砂場まで手を引いて連れて行っていたのです。


忘れられない出来事があります。弟の手を引きながら公園までの道の途中、すれ違う人々は一様に、巨体を抱えてゆっくりと歩を進める弟を、振り返ってはじろじろと眺めていきます。それはまあ仕方ありません。しかしある日、小学校4、5年生ぐらいの一人の男の子が、すれ違いざまに、小さな声ではありましたが、弟に向かって、私にもはっきりと聞こえる声で言ったのです。「ばけもの」。


瞬間、私は体から血の気がすーっと引いていきました。今にして思えば、その子が悪いのではありません。人に対してそんな言葉をぶつけてしまうような教育しか施してやっていない大人の責任なのです。しかし、当時小学校5年生の私がそのような分別があるはずもなく、次の瞬間、その男の子めがけて殴りかかっておりました。何発ぐらい殴ったか、どこを殴ったかもわかりません。その子は泣き叫びながら走って逃げて行きました。私は震える手をもう一方の手で押さえながら、ただ目の前で起こった出来事と兄の形相の恐ろしさに震えながら泣きじゃくっている弟の頭をそっとなでてやりました。


このことがあってから、私は何かにつけて、弟に何か言ったり、じろじろ見たり、振り返って笑ったり、遠くからこっちを指さしたりするような子を見かけると、喧嘩をうるようになっていきました。有無を言わさず殴りかかりました。おそらく自分では、弟のことを守ってやっているのだという大義名分が、心の中にあったように思います。そんな幼稚な少年だったのです。当然のことながら、近所では暴力少年のレッテルが貼られます。「あの子は危険だから近づくな」という噂はあっという間に広まって、私の友達だった男の子達が、私と遊ぶのを敬遠するようになりました。友達がいなくなっていきました。


私が自分で蒔いた種なのですが、当時の私はそんなこともわかりません。心の中では「俺は悪くない」「悪いのは弟をいじめたあいつらや」「それなんに俺を無視しやがって」と逆恨みしていました。そして今度は、何やかやと言い訳をして、私と遊ぼうとしない友達にまで暴力をふるうようになってしまったのです。こうなると心は荒んでいく一方です。毎日毎日、喧嘩に明け暮れ、生傷を作って帰らない日はありませんでした。母にはとても心配をかけていたと思います。しかし、私の荒れる様子を見ても母は何一つ言いません。傷を手当てする赤チンを薬箱から持ってきて、黙って私に渡すのが日課の母でした。「親の心子知らず」とはよく言ったもので、当時の私は、すべてを周りのせいにして、母の心を痛めていたのも知らずに、友達に暴力をふるってはいい気になって生きていたのです。


そんなある日のことでした。いつもの公園の砂場で弟を遊ばせてやっていた時のことです。私と同じくらいの歳の近所に住む3人の男の子達が公園にやってきました。そして弟を見つけては、何やらヒソヒソと話しています。たぶん、3対1という数からいっても有利だと思ったのでしょう。そのうち、その中の一人が叫びました。「怪獣発見、攻撃に移る」その3人は手に手に砂を堅く握って、両手を飛行機の翼のように広げては「キーン」と言いながら、こちらに向かって走ってきます。いつもの仕返しに来やがったと思った私は、弟を巻き添えにするのを恐れ、砂場から飛び出して身構えました。ところが彼らはその砂を、私にではなく、座って何も知らずに下を向いて砂遊びをしている弟に向かって投げつけたのです。そして走り去っては向こうの方で、また砂を両手ですくっています。弟は逃げる余裕もなく、ただじっとして、頭から砂まみれにされてしまいました。「この卑怯もんがー」私は我を忘れて、第二陣の攻撃を仕掛けようとしている3人めがけて突っ込んでいきました。


小学生の時から体が大きかった私は、その3人の中のリーダーと思われる奴に体当たりし、その衝撃で倒れたその子に馬乗りになっては殴りつけます。他の二人は私の横から後ろから殴ってきます。もうそのあとは何が何やらわからない状態で、気がつけば、その3人が走り去って行く姿がありました。3人が公園からいなくなったのを見届けてから、私が砂場に戻ってくると、弟は何事もなかったかのように、頭から砂をかぶったままで砂遊びを続けているのです。私は溢れてくる涙をどうすることもできず、泣きながら弟の髪の毛から砂を払ってやるのが精一杯でした。


しかし、その日の夜のことです。母が夕飯の支度をしている時間帯でした。私と弟は居間でテレビを見ていました。と言っても、弟にはテレビの面白さがわかるはずもなく、ただじいっと画面に見入っているだけで笑うこともありません。父はまだ帰宅していませんでしたので、がらがらと玄関の引き戸を開ける音に、土間の炊事場にいた母は、父の帰宅した音かと思ったようですが、入ってきたのは、今日の夕方、私から体当たりをくらわされて、馬乗りになられ、さんざん殴りつけられた例の男の子とその母親でした。私もてっきり、父が帰ってきたものだと思い、出迎えに炊事場のある土間の方へと立って出たところ、母親の後ろに半分身を隠したように立っている昼間の男の子が目に入りました。瞬間、私は「このー」と叫んで、その子に向かっていこうと裸足で土間に飛び降りました。しかし、飛び降りた瞬間、土間で炊事の最中だった母にポーンと押されて尻餅をついてしまいました。


そのかっこ悪さに腹が立って、私は「なんしよっとか」と怒鳴って、母をにらみながら立ち上がり、今度はその子をにらみつけました。そこで初めて私は、その子をよく見たのです。夜の裸電球の下では、あまりよく見えなかったのですが、その子は顔中に青染みができており、数カ所に赤チンが塗ってあります。明らかに私から殴られた傷跡とわかるものでした。母はおそらく、とっくに事情を察していたのでしょう。立ち上がった私を恐い形相でにらんでいます。


「この子がな、何もしとらんのに、あんたんとこの息子に、ぼてくりこかされて、殴られたっち言いよるんやが」「何もしとらんのに」の一言に、無性に腹が立った私は「ふざけんな」との思いで、言い返しました。「お母さん、こいつが弟に・・・」その瞬間、母の激しい怒鳴り声が響きました。「あんたは黙っとき」「そやけどお母さん・・・」「裸足で土間に降りて、なんしよっとね。恥ずかしかろうが、あんたは。はよう足洗うてきんしゃい」そう言って取りあってくれません。私は目にいっぱい涙をためて抗議しようと必死でした。「お母さん・・・」「はよう行かんかね。失礼やろが」


どうあっても私を相手にしてくれない母は、相変わらず私を恐い目でにらんでいます。このままだと母が逆上して殴られると諦めて、しぶしぶ家の外に出ました。炭鉱長屋には各家に浴場などありません。風呂に入るには、家から少し離れた炭鉱長屋住人用の公衆浴場に行くしかありませんでした。その代わり、鉱内に潜った人が帰宅する前に使用するのだと思いますが、数戸の長屋に一個の割合で外に井戸がありました。私は足を洗うために、その井戸に向かって下駄をつっかけて走りました。そして急いで足の裏を洗って、戻ってきて玄関の扉に手をかけたその時です。玄関のガラス戸越しに私の目に飛び込んできた光景に私は凍りついてしまったのです。


なんと、家の中では私の母が、あの憎たらしい奴の母親に平手をついてぺこぺこと、平謝りに謝っているのです。私は動けなくなりました。家の外でボロボロとあふれ出る涙を拭うことも忘れて母の姿をじっと見つめておりました。間もなくして、その親子が玄関から出て行くのと入れ替わりに、私は家の中に入っていきました。


「お母さん、なんで謝っとったん?俺、悪くない。あいつが弟をいじめたけん・・・」私が涙ながらにそう言うと、母は、何事もなかったかのように、夕飯の支度をしながら言いました。「わかっとるよ。でもな、あんたがあそこで本当のこと言うてみ。あの子、家に帰ってから、もっとひどい目に遭うやろ。ただでさえ、あんたから怪我させられとるんに、可哀想やないか。」


本当に優しい母でした。我が子も人の子も同じ。まったく差別なく、同じように愛する人でした。このことがあってから、私の暴力的な振る舞いは徐々に無くなり、それにつれて、私の周りにまた以前のように友達が戻ってきました。私が6年生になったとき、三つ年下の弟が私の通う小学校に入学してきました。本来ならば3年生の弟ですが、言葉もよくしゃべれない弟が同級の健常者と共に学習することは望むべくもありません。そして当時、田舎ということもあって、私の住まいの近所の学校にはどこにも、現在のような特別支援学校はなく、どの学校にも特別支援学級もありませんでした。


この日から、私の学校での生活の中に、弟の世話という新しい仕事が増えることになりました。当時の学校のトイレはすべて和式トイレでしたが、弟はうんちをする際に、便器の上にじかに座り込んでうんちをするのです。この頃には弟も、眠るとき以外はおむつが取れておりました。しかし、うんちが終わっても自分で自分のお尻を拭くことができません。弟のトイレは時間を選んではくれないので、授業中だろうと何だろうと、弟が便意を催したときは、弟の担任の先生が私の教室まで来られて、私が弟の尻拭きの仕事にかり出されるというわけでした。


しかし、弟が普通の小学校に通って行けたのは、私が小学校に在学していたこの1年間のことだけでした。私が小学校を卒業すると同時に、小学校の先生方に呼ばれて学校に赴いた母は、弟の世話をする人間がいなくなるという理由で、弟の就学の継続を断られたのでした。そのために、弟はまたもとのように、自宅にじっとしている生活にまい戻されてしまいました。


時が流れて、弟が30歳を迎えることになりました。私は33歳。お医者さんの話では、この歳になるまで生きることは難しいと言われた年齢です。しかし弟はピンピンしておりました。「なんだ、あの医者の言ったことは嘘だったじゃないか」そんな風に思いながら、また時が流れていきました。そして、弟が34歳を迎えた時、弟は亡くなりました。私の職場に、弟の急を告げる電話が母よりありました。私は即座に、弟の入院した病院へと急行しました。しかし、私が通された部屋は病室ではなく霊安室でした。白い布を頭に被された弟の遺体がベッドに横たわっておりました。父は長年の飲酒がたたって、胃癌で入院中でしたが、母を始め親戚の見守る中、私は恥ずかしげもなく、大声をあげて泣きじゃくりました。白い布をとって、弟の亡骸に突っ伏して、「わーん」と大声を出して泣きました。


同じ両親から、わずか3年早く生まれた私。その私は何不自由ない五体満足な体で生まれてきては、大学まで出て教員になり、結婚もし、子供もできて幸せな家庭を築いている。しかし、わずか3年後に生まれた弟は、我が家の不幸を一身に背負ったかのように、しゃべることもままならず、走ることもできない。文字を読み書きすることも、テレビを楽しむこともなく、この世を去っていったのです。いったい弟の幸せって何だったのか。何のために生まれてきたのか、今も私にはわからないままなのです。


人目も気にせず、あんなに大声で泣いたのは、後にも先にもあれが最初で最後でした。弟にも何か使命があって生まれてきたのでしょうか。だとしたら、その使命とは一体何だったのでしょうか。何の楽しみもなく、幸せという感覚も感じることなく、あの世に旅立った弟。その翌年、弟の死を待っていたかのように、責任を果たし終えたかのように父も亡くなりました。これが私と弟の人生です。


しかし、ようやくこの歳になって気づかされたことがございます。それは弟には弟なりの使命があってこの世に誕生したのだということです。父に、母に、私に、気づかされたこと。それは「人は他の人と支え合って生きているのだということ。だから、他人を他人と思わず、我が兄弟と思って生きて行きなさいということ。そのことを伝えるために僕は生まれてきたんだよ。」たくさんの人の力を借りながら、34年間の短い人生を一生懸命生き抜いた弟でしたが、空の上から、そう言って微笑んでいる弟の顔を見つめる毎日なのです。

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