こころゆくまで

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父と私

今日は私の生い立ちの話をさせていただきたいと思います。私は福岡県飯塚市の生まれですが、父はもともと博多の人で、大正生まれの気骨のあるいわゆる頑固一徹な人でした。太平洋戦争において、父は南方の戦場に赴き、そこで終戦を迎えることになりましたが、海軍に所属しており、高専の出身だったので戦闘機の整備士をしておりました。永遠のゼロという映画を見たのですが、まさにあの映画に登場する整備士と同じようなことをやっていたのだと思います。


家族の前では、めったに戦争の話などするような人ではありませんでしたが、日本酒を毎日一升瓶が空になるまで飲んでおりましたので、酔いが回ってくると、ぽつりぽつりと、まだ小学生の私に、戦争の話を始めるのでした。「戦争はいかん。あれはやっちゃいかん。昨日一緒に笑い合った友達が次の日にはいなくなる。爆弾抱えたままで、行きの燃料しか積んでないんや。そのままアメリカの船に突っ込む。どれだけ恐いことか。俺は毎日、戻ってこないってわかっている戦闘機を、それでもちゃんと飛んでいけるように、死んでしまう友のために一生懸命整備しとった。そんなお父さんの気持ちがお前にはわからんやろうな」小学生の私には、わかるはずもありません。黙って聞いているしかありませんでした。


「あいつらみんな、『いきます』って行って飛んでいくんや。『行ってきます』やない。ただ『行きます』なんや。それは上官からはな、『天皇陛下万歳』って言いながら突っ込むように言われとるんやが、誰一人、そんなこと言う奴はおらん。みんな『お母さーん』て叫びながら体当たりする。」私は、酔っ払って戦争の話を始めると、きまって独り言のように繰り返す父の声に、何だか恐ろしいものを感じながら聞いていたのを覚えています。最近になってようやく、「行きます」の意味がわかるようになりました。「行ってきます」は「行って帰ってきます」という意味。「行きます」というのは、帰ってこないから、そのように言ったのだということなのですね。


「終戦になって日本が負けて、引き揚げ船の中がまた地獄やった。生き残った者達が、かつての上官だった者達を夜中に海の中にたたき落とすんや。殴られた仕返し、いじめられた仕返しや言うて海に落として殺しよる。戦争はな、人間を人間じゃないものに変えよる。あれだけはやっちゃいかん。」「でもな、忘れるなよ。その人達がおったから、その人達が命がけでこの国を、お前の母ちゃんを守ってくれたから、今こうやってお前は生きているんだよ。」小学生の私には、とても恐ろしい話でしたが、あまりにも印象が強かったせいか、その言葉は今でもはっきりと耳に残っています。


誰よりも恐かったけど、また誰よりも優しかった父でした。食べ物の好き嫌いは絶対に許されません。当時、白ネギが嫌いで食べ残していると、私の頬を親指と人差し指で挟んでは、口を無理矢理にこじ開けて、口の中に突っ込むのです。まるで小鳥に餌を与えるがごとく。とにかく、出されたものはすべて食え。何一つ残すな。一粒の米には七人の神様が宿っておられる。一粒たりとも残すと罰が当たる。そう言っては無理矢理食べさせられました。当時は嫌で嫌で仕方ありませんでしたが、今となってみれば、そのおかげで私は何一つ嫌いなものがなく、何でも食べれるようになっております。


まさに、過去は変えられる。当時は辛くて嫌だった過去も、現在の自分から見れば感謝の対象となっているのです。とすれば、苦しい今も、未来から見ればきっと感謝の対象になっているに違いない。要はそのことを信じることができるかどうか。信じて今を乗り切れるかどうかにかかっている。「仏は能忍」と申します。つまり、「仏はよく忍ぶ」それは「諸行無常を知るゆえなり」つまり、この世の森羅万象はすべてが変わりゆく。変わらぬものなど何もない。今は確かに苦しいかもしれないが、永久に続く苦しみや悲しみなどは存在しない。必ず変わる。だから今の、目の前の苦しみを将来を楽しみにして乗り越えて行きなさい。必ず幸せが待っている。あなたに乗り越えられないものなどやってこないのだから。こんなお釈迦様の教えもございます。


そう言えば私が小さな頃、こんなこともありました。我が家では毎日お酒を一升、浴びるように飲んでいた父のお酒を買いに行くのが、長男である私の仕事でした。当時は空の一升瓶をぶら下げて、購買店というところに買いに行くのですが、父が「酒が切れたぁ」と叫ぶのは、決まって夜の7時ごろ。暗くなった夜道を買いに行っては一升枡で計って漏斗で一升瓶についでもらいます。お酒は決まって清酒の二級酒でした。ところが、ある日の夜のこと、例によって「酒が切れたぁ」の叫びと共に、一升瓶ぶら下げて外に出て、酒を注いでもらっての帰り道。夜道のせいもあって、私は転んでしまいました。そのひょうしに一升瓶は割れてしまい、お酒はすべて土の中へと吸収されてしまったのです。仕方なく、割れた一升瓶のかけらを拾い集めて家に持って帰りました。


「お父さん、ごめんなさい」そう言って、割れた一升瓶のかけらを父の前に差し出しました。「そうか、割ってしまったのか」そう言いながら父は、「それなら仕方ないな」という言葉を期待している私の気持ちなどにはお構いなく、私を畳の上に投げ飛ばし、まだ小学4年生の私の上に馬乗りになっては、固めた両手のげんこつで私の顔を殴り始めました。殴りながら、口から出た言葉は今も鮮明に脳裏に焼きついています。「酒の一滴は、血の一滴じゃ~」この紅顔の美少年の顔が、たちまち完熟トマトのように膨れあがっては、口から血がしたたり落ちるのですが、父は容赦がありません。殴り疲れるまで殴られた記憶があります。


翌日、顔を真っ赤に腫れさせて登校してきた私の顔を見て、心配した担任の先生が言いました。「どうしたの。そんなに顔を腫らしてしまって。」私は昨夜の悪夢のようなできごとの一部始終を先生にぶちまけました。しっかり聞いてくれた先生の口からは、たった一言「それなら仕方ないね」。「そうか、これは仕方ないことなのか」と妙に納得してしまう素直な少年なのでした。しかし、それ以来、あらゆるお酒は飲めるのですが、なぜか日本酒だけは受けつけない体になってしまいました。


当時、戦争から引き上げてきた父は、祖父と喧嘩して博多の実家を飛び出し、飯塚市に流れてきて、当時羽振りが良かった筑豊炭田の会社に就職し、炭鉱の掘削機械などを設計する仕事を行っておりました。私達の住まいは炭鉱住宅(炭住)、別名「ハモニカ長屋」と言いまして、6畳二間ぐらいの部屋の入り口の土間に台所があるというだけの貧しい暮らしをしておりました。そういう家が10軒ほど連なって一つの建物になっているという、まさに長屋そのもので、その長屋がまた10~20棟ほど並んで、一つの町内を形成しておりました。


今から思えば不思議なことなのですが、自宅と両隣の家は薄い壁を隔てているだけのものでした。その両隣の家との境の壁が、人一人がしゃがんでくぐれるほどに、くり抜いてあるのです。つまり、隣の家に行くのに、いったん外に出ることなく行き来ができるようになっていたのです。壁の穴をくぐりくぐりしていけば、端から端まで10軒の家を自由自在に行き来できるのです。何のために、こんな穴を開けたのか。間違いなく、この穴は建造後に住人が開けたものに違いありません。これこそまさに生活の知恵。助け合いの穴だったのです。


毎朝、朝食の時間になると、私のもう一つの仕事が待っています。朝食の支度をしながら母が言います。「あのね、田中のおばちゃんから味噌借りてきて~」「は~い」私は小皿を持って、例の穴をくぐって、隣の家に。「おばちゃん、味噌貸して」「あら、ごめんなさい、うちも今切らしてるの」「わかった」といって、田中さんの家の壁から、さらに隣の柴田さんの家へ。「おばちゃん、味噌貸して」「あら、田中さんは?」「うん、田中のおばちゃん、今切らしてるって」「あらそうなの。じゃあ、これ田中さんにお願いね」そう言って、柴田さんは我が家の味噌の他に田中家の味噌まで小皿に盛って渡してくれました。「ありがとう、おばちゃん」そう言って、ぺこりとお辞儀をして、帰りに田中のおばちゃんに一皿、味噌の小皿を渡します。「はい、おばちゃんこれ、柴田のおばちゃんから」「あら、ありがとう」田中のおばちゃんに味噌を渡して、私は無事に自宅の母の元に味噌を届けるのです。もちろん、味噌だけではありません。砂糖、醤油、いりこ等々すべての調味料。時にはお米を借りることも。


しかし、このような穴があったのではプライバシーなど無きに等しく、隣家の夫婦喧嘩の声もすべて聞こえて参ります。しばらく聞いていて、エキサイトして物が飛び交うような頃合いを見はからっては、父が壁の穴を通って隣の家に侵入して夫婦喧嘩の仲裁が始まるのです。なんと便利な穴なのでしょう。つまり、先人達はプライバシーを守ることよりも、助け合うことの方を選んだのでした。そのおかげで、私は小学生でありながら、向こう三軒両隣どころか、10軒すべてのお宅の住人の姓名をすべて覚えておりました。そして私の母の実家が八百屋をやっておりました関係で、夕方頃になると祖父がオート三輪の荷台に、その日売れ残った野菜を持ってきてくれました。母はその野菜を受け取っては、手際よく包丁で切り分けては私に渡します。そうです。その野菜を例の壁の穴をくぐって、10軒のお宅に配達する宅配便の野菜配達のようなことをするのが小学生の私の仕事でした。


ところで、みなさんはどうでしょうか。ご自宅の向こう三軒両隣にお住まいの方の住人すべての姓名をすべて言うことができますか。都会にお住みの方はおそらく難しいのではないでしょうか。私達は文化的な進歩と引き換えに、何か大切な物を無くしてしまったのではないでしょうか。人と人のつながり。人は人によってしか幸せにはなれません。その幸せへの切符を失いつつあると危機感をつのらせているのは、私一人でしょうか。

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