こころゆくまで

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教育と龍馬の生き方

まず、私が考える教育についての見解を述べさせていただきたく存じます。


今からもう、30年も昔の話でございます。当時は私も30歳の中学校教諭駆け出しの頃でございました。私のクラスに、学校でも最も勉強のよくできる子供がおりました。英語の試験では毎回満点。全教科でも、平均点は常に95点以上という秀才でした。ある日、私はその子に尋ねました。


「君はいつも、すごくテストの点がいいけれど、1日どのくらい勉強してるの?」
「塾の時間も入れると、平均5時間ぐらいです。」
「それはすごいね。ところで、どうしてそんなに勉強してるの?」
「いい高校に入るためです。」
「いい高校に入ってどうするの?」
「いい大学に入ります。」
「いい大学に入ってどうするの?」
「いい会社に入ります。」
「いい会社に入ってどうするの?」
「いい給料をもらって、いい生活をします。」
「いい生活をしてどうするの?」
「幸せな人生を送ります。」
「そうなの?いい生活を送ることが君の勉強する目的なんだね。別に悪いとは言わないけど、ちょっと寂しいなぁ。」


彼は、私が言いたいことがわからずに、キョトンとしておりました。ここにもまた一人、大人達から価値観を植え付けられてしまった犠牲者がいる。私はそう思わざるを得ませんでした。


彼の中では、「いい生活」イコール「幸せ」という方程式ができあがっているのです。この方程式は彼が一人で考え出したものではなく、大人達が彼に与えたものに違いないと思います。そして、30年前の当時より今日に至るまで、今もってこの方程式は正しいものとして受け継がれてきているようにも思います。


でも、私は違うと思っています。「いい生活」イコール「幸せ」ではなく、「いい人生」イコール「幸せ」なのではないかと。お金を余るほど持っていても、不幸を感じている人は山ほどおられますし、逆に、貧しい生活をしていても、幸せな人生を送っておられる方々もたくさんおられるのです。


この事実から推し量ることができるのは、経済的に裕福かどうかということと、幸福か不幸かということは、まったく無関係であるということ。それを「いい生活」イコール「幸せ」という方程式を作り上げたのは、大人達の錯覚に過ぎないということ。


ならば、教師の使命とは、子供達の中にもう一度、「いい生活」イコール「幸せ」ではなく、「いい人生」イコール「幸せ」という方程式を打ち立ててやることから始まるのではないかと。つまり、「いい生活」を目指させるのではなく、「いい人生」を目指すようにしてあげる必要があるのではないか。まず、そこから始めて、そして次に、では「いい人生」とは?という命題に移っていくのではないかと思います。


「いい人生」それは「人に喜んでいただく人生」ではないでしょうか。この素晴らしい価値観が日本中に広まってゆくことを心から願っております。なぜなら、日本の中で「君の喜びこそ我が幸せ」などと思っている人間が増えれば、日本はどんなに素晴らしい国になることでしょう。


私は坂本龍馬が好きなのですが、彼の特徴は、人との出会いを通して、時とともに、自分自身を大きくしていったことにあります。まず、初めは土佐藩が彼には小さくなりすぎました。そして彼は、平然と脱藩。この当時、誰もが自分の藩を尊皇か佐幕か、いずれかにしようと、あくせくもがいていた時代にあって、藩が自分に小さいから出ていく、などという発想のできた人間は龍馬だけだったと思います。


さらに、薩長同盟を成し遂げ、徳川慶喜に大政奉還をなさしめ、皆が新政府の要人たらんとしていた時、龍馬にとっては、すでに日本一国でさえも小さすぎるものとなっていたのでしょう。新政府の要人なんかには何の未練もなく、世界に雄飛しようとしたのです。


ところが不運にも、その志なかばで龍馬は帰らぬ人となってしまいました。その龍馬が世界に出ていこうとした。それと、同じことを現代の日本人はやっていくべきではないかと思うのです。そして、日本の、日本にしかできないと思われる精神性、「水に流す」文化、「許してしまう」文化こそが、世界を救う唯一の道なのだと、声高らかに歌い上げていくことを心から願うものであります。


そこから始めて、いや、そこからしか人類は世界平和、世界不戦への第一歩は踏み出せないのではないか。いつまでも、やられたことを恨んでいても自分に幸せが訪れるわけではない。さらに、相手をやっつけて、自分の憂さを晴らしてみたところで、相手に恨みを買うだけで、そのことが自分の幸せにつながるかというと、そんなことは全くないわけです。こうやって、子々孫々に至るまで恨みあい、殺しあいを続ける結果しか生まないというのに、それでも自分の憂さ晴らしを続けていこうとする。


ここに人類の愚かさがあります。つまり、単純化してしまえば、「お前が悪い。お前が悪い。」と百万回連呼したところで、相手は「ああ、そうか俺が悪かった」なんて決して思うはずはなく、余計に腹を立てるだけなのです。そして「お前が悪い」と連呼する人間は、相手にその非を認めさせたいのでしょうが、「お前が悪い」イコール「自分は悪くない」ということにはならないということがわかっていないのです。「お前だけが悪い」のではなく「俺も悪いんだ」という発想がなぜ出てこないのか。これこそが、「人を叱る時には必ず、逃げ道を作っておかないといけない」と言われる人間相互のコミュニケーションを円滑に行う道なのです。


失敗してしまった相手に対して、「ああそうか。失敗したのか。僕も君にここを注意するように言っておかなかったのが悪かったんだ。」と言う発想、これが必要なのです。なぜなら、「俺が悪い。俺が悪い。」と連呼しながら相手に喧嘩を売っている人間などどこにも存在しないからです。いつの時代にあっても、人に喧嘩を売る人間は、「100%相手が悪い。100%自分が正義」と思っている。だからこそ、日本独自の文化「喧嘩両成敗」って、やっぱり大事なことではないのかと思われるのです。


広島にオバマ大統領を迎えたお爺ちゃん、お婆ちゃんが言ってた「あんたが原爆を落としたんじゃないもんな」と言える日本人独特の「許す、忘れる美徳」というものを世界唯一の被爆国日本は世界に発信してゆく使命を持っているのではないかと確信する次第なのです。

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